VR徒然(結局、あいぴのカタルシス) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「ペルソナ」

 

 衣装から剥がれた一枚の羽。ユラユラとステージに舞い降りて、しばしそこらを漂っていたが、やがてステージ下へと落ちていった。僕が知っているいつだかの劇場の物語。

 かつてアンドレ・バザンは、ディープ・フォーカスについて映画に曖昧さをもたらすものだとした。そこでは観客の目は制作者の案内を離れて画面を漂い、映画は現実に近い曖昧なものとなる。しかし、その指摘はむしろVRにこそ相応しい。カメラマンの目もスイッチャーの目も通さない世界、僕の目は現実世界と同様にステージ上を漂い続ける。そこで駆動される物語は、目が見出した個人的な物語だ。

 他でもない佐月愛果がその物語の主人公として君臨する。

 「最後のカタルシス」でのあいぴは、演技が上手いとか、そういう表現では追いつかない。あの時間、彼女は曲を生きている。仮面のような無表情さ、そこにレイやアスカや初号機や麻友の顔がよぎる。それは僕が仮面の上に重ね合わせているもの。やがて彼女は立ち上がる。ただひとりの佐月愛果として、燃えさかる魂の輝きと生命の重みをその小さな身体にたぎらせて立ち上がる。

 どうしようもなく、どうしようもなく、素晴らしい。あれは誰と比べてどうとか、そういう次元を越えている。人間ひとりの命の重みを測れないように、あのパフォーマンスは尺度を越えている。そういうものに出逢ってしまったら、僕はひれ伏さざるをえない。1秒たりとも目が離せなくなってしまう。