ゆいゆいの件(その2) | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「ゆいゆいの件」(その2)

 今回の件、大きく分けて2つの点から批判されているように思います。

 まず、「―女子」というネーミング。これに関しては違和感を覚える人がいるのは分かりますし、同調はできなくても理解はします。

 もうひとつは、芸術作品に対する「理解」を軽視し、美術館を「インスタ映え」スポットとして捉えているという点です。これに関してはどうでしょうか。この企画の問題点は視点がよく分からないところだと僕自身は思っています。主体がよく分からない言葉があるのです。それが傷口を広げているように思いますが、ただ明らかにゆいゆい自身のもの(あるいはそれが元になっている)と思われる「」で括られた言葉があります。書き出します。

「どんな作品と出会えるのか、今から楽しみです」
「アート作品と共演するということで、今日のコーデは、作品のパワーに負けず、且つ、うまくなじむ色を意識してみました。映え写真、いっぱい撮れるかな?」
「神々しいまでの美しさ。一番印象に残った映えスポットです」 
「オノ・ヨーコさんの作品に囲まれて写真を撮れる。こんな贅沢な経験ってなかなかないです」
「館内に展示されていた椅子も実はアート作品。すごくオシャレです」
「作者はどんな気持ちでこの作品を作ったんだろう。そんなことに思いをはせていると、いつの間にか時間がたっていました」 
「最初は私に芸術って理解できるのかな、って不安でした。でも、言葉とか理屈じゃなくて伝わる何かがあって、パワーに圧倒されました」 
「自然と作品と一体になる感覚。写真自体が一つの作品になってくれればいいな」
「どこを切り取っても絵になる美しさがあって、こんな贅沢な映えスポットが身近にあるなんてびっくりしました」
「今までにない自分が表現できたと思います。どんな作品になるのか、できあがりが楽しみです」
https://www.yomiuri.co.jp/s/ims/bijyutukanjyoshi01/

 ゆいゆいがこれまで(少なくとも現代)芸術にあまり接してこなかったというのはおそらく事実でしょう。それは、「芸術って理解できるかな、って不安でした」という言葉から分かります。そしてこの企画において、彼女は彼女なりの仕方で芸術に接しようとしたということも、これらの言葉から分かります。

 先述した第2の批判(芸術作品に対する「理解」を軽視し、美術館を「インスタ映え」スポットとして捉えている)は、不用意にもそうしたゆいゆい自身の芸術に対する接し方にも矛先を向けてしまっています。批判者は芸術に対する接し方を規定し、そうした接し方を人にも強制しているのです。僕が違和感をおぼえるのはその点です。

 ある批判者は「言葉とか理屈じゃなくて伝わる何か」というゆいゆいの言葉に矛先を向けます。

 



 しかし、ゆいゆいが単にインスタ映えスポットとしてのみ美術館を捉えているわけではないことは、「作者はどんな気持ちでこの作品を作ったんだろう。そんなことに思いをはせていると、いつの間にか時間がたっていました」 という言葉から分かります。作者の意図と作品の解釈に関する議論はここでは置いておきましょう。ゆいゆいは理解しようとしてないのではなく、彼女なりの仕方で理解を試みています。批判者はこの言葉を意図的に無視します。

 結果的に、この批判者の言葉は「芸術に対する理解」はその作品の置かれた文脈、言い換えれば知識を踏まえたものでなければならないという言明になっています。この批判者は、大学教授である自身が寄って立つところの「知」を芸術に対する理解の前提としています。僕が「知の特権化」と呼ぶものはこれです。

 こうした批判がまかり通るなら、芸術教育を受けていない人間、受けたくても受けられない人間は、常にその「理解」から疎外されることになります。自らの持つそうした特権意識こそ批判されるべきではないか、というのが大学で芸術学の講義を担当する人間として僕が思うことです。作品の置かれた文脈が重要だというのは確かですが、しかしそれ以外の理解の仕方を排除すべきではありません。

 批判者の言説を模倣するなら、そもそも現代芸術は芸術に対するそうした固定された眼差しをこそ批判してきたのではないでしょうか。たとえば2014年から2015年にかけてMoMAで行われた展覧会においてオスカー・ムリーリョはキャンバスを床に置き、来館者がそれを自由に扱えるようにしました。壁の掲示にはこう書かれていました。

「ムリーリョは、作品を誰にでも触れられるようにすることで、一部の作家の現代絵画があまりにも高価なために、一般の鑑賞者が触れたり詳しく調べたりすることができなくなったという事実に、ユーモアを交えながら挑戦しています」

 美術批評家やメディアなどを集めた内覧会では、誰もそのキャンバスに触れませんでした。ある批評家は「私が見る限り、誰も美術館/ギャラリーの通常の手順に違反していませんでした。おそらくそうする気がなかったのでしょう」と述べています。しかしながら、一般の来館者はそれを体に巻き、時に踏みつけ、そして写真を撮り、インスタグラムに載せました。

 

 

 ここでは、知識を持った美術批評家よりも(それに比べれば)そうではない一般の来館者の方がむしろ(作者の意図に対して)正しく作品に接していたのです。このことは、美術批評家の持つ心理的抑制を浮かび上がらせる結果となりました。この作品は、芸術に対する美術批評家の固定された眼差しを批判する機能を果たしたのです。

 ここで僕が言いたいのは、むろん一般の来館者が常に正しいということではありません。そうではなく、それらはどちらかが芸術に対して特権的な立場にあるものではなく、常に相対化されるべきものではないかということです。芸術はアート・ワールドの住人だけのものではありません。

 

 そして、これは芸術の話なのですから、「インスタ映え」や「理屈ではない理解」を批判したいなら、それもまた作品によってなされるべきではないでしょうか。言説によって封殺するのは、果たしてアート・ワールドのやるべきことでしょうか? 

 ゆいゆいの言葉から分かることがもうひとつあります。それは、彼女が写真自体を作品と捉えていることです。「写真自体が一つの作品になってくれればいいな」「今までにない自分が表現できたと思います。どんな作品になるのか、できあがりが楽しみです」という言葉からそれが分かります。
 
 これがひとつの表現であり、作品であるならば、それに対する批判は芸術作品自体で表されるべきであり、言説で潰すべきではありません。近年、問題になった表現の自由に対する意識はここではどこかへ吹き飛んでいってしまっています。
 
 このことは批判者が無意識にもアート・ワールド、あるいは美術館制度の内側にあるもののみを「芸術」とみなしていることを現しています。それが、アート・ワールドの内側では「表現の自由」は認められるべきだが、その外側ではそうではないというダブルスタンダードを呼び込む結果になっています。

 もう一度言います。言説によって彼女の表現を封殺するのは、果たしてアート・ワールドのやるべきことでしょうか?