「知の特権化」
前略。ゆいゆいの件。
僕は芸術というものが嫌いだ。より正確に言えばそこにへばりついている特権意識が嫌いだ。
冒頭に載せた彼の言葉は「現代芸術とはこういうものだ」という現状認識にとどまらず、「こういう思想/規範にもとづくべきだ」(追記:あるいは「こう接するべきだ」)という箴言を含んでいる。僕にはそれがたまらなく思える。彼は無防備にも自分の思想/規範をこそ現代芸術は体現すべきだとする。彼の芸術認識は、布教のための宗教芸術や啓蒙のためのプロパガンダ芸術となんら変わらない。
こんな言説がまかり通るなら、現代芸術はいつかアートワールドのスピーカーと堕してしまう。アートワールドによってのみ「芸術」という地位が付与されるならば、批評家に受ける作品しか芸術ではなくなり、そうした作品を作る人間しか芸術家ではなくなる。そこにおいては、前衛芸術が備えていた思想/規範の相対化*はもはや機能しない。アートワールドにとって耳心地の良い思想/規範だけがそこでは拡大反復される。
(前衛芸術は、人を不快にしてなんぼのもの。そうすることで人が無意識の内に抱えている思想/規範を浮き彫りにする。前衛においては自分自身が寄って立つところの思想/規範さえも相対化される)
現代芸術において「理解」が重要だってのも、芸術に対して特権的な立場を確保するために、単に知識階級が(自らの持つ社会的権威を利用して)そういうものにしたからに過ぎない。「美」を後景に押しのけて「知」を特権化したのは、単に自分たちが扱えるものが「知」だからってだけに過ぎない。
(追記:美術館に行ったことのない人間が自らの仕方で芸術に接し始めた時)最高学府の教授が芸術を知の所有物にし続けようと発言するなら、それは単なるポジショントークだと言わざるを得ない。批評家が語り、学者が分析し、そうして芸術を美の領域から知の領域へと奪い去った。そのことをもっと自覚すべきなんだ。芸術は僕らだけのものじゃない。
芸術ってのは本来、もっと危険で野性的で飼い慣らせないもの。危険であるがゆえに守るべきもの。後世から見て、その時代の思想や社会的規範が常に正しいとは限らないというのは歴史が証明してきた。「知」は万能ではないんだ。だからこそ、思想/規範を相対化する装置としての芸術が大事なんじゃないか。批評家や研究者の耳心地の良いものしか作らなくなったら、それは芸術の敗北だ。
知らんけど。
(6月18日追記&文言微修正)
