ドロステのはてで僕ら
監督:山口淳太
概要
劇団「ヨーロッパ企画」代表・上田誠監督の短編映画『ハウリング』をリブートした長編作。2分先の未来が見えるテレビをめぐって騒動が巻き起こる。主演の土佐和成をはじめとする劇団員のほか、ドラマ「歌舞伎町弁護人 凛花」などの朝倉あきらなどが出演。原案・脚本は上田が担当し、劇団の映像ディレクター山口淳太がメガホンを取った。タイトルにある「ドロステ」とは果てしなく続く合わせ鏡のような構図を指す。(シネマトゥデイより)
感想(『ドロステ』に関する断章)
映画学者トム・ガニングが、初期映画は物語映画(物語を語る映画)ではなく、むしろアトラクションの映画(見世物としての映画)だったと語るように、映画の見方というのは時代ごとに変わっていく。近年はふたたびアトラクションの映画が覇権を取り、音楽的映画も隆盛している。
『ドロステ』はいったい何の映画なんだろう。
・映画?
映画の快感というのは多分に生理的なもの。たとえば劇場版『エースをねらえ!』(出崎統監督)のオープニング。降りしきる雨の音、寝転がる岡ひろみの「雨の夜はゴエモンけとばす」というセリフのあとにタイトルがバーンと出て主題歌がかかる。庵野さんは「ここの気持ちよさはもう、あっ映画だなあと。あれが出来ているのは素晴らしい」(クリエーターたちのDNA ~ニッポンアニメ100年史)と評しているわけだけれど。
『ドロステ』は(オープニングとエンディングこそやや映画的になっているけれど)基本的に2分後の未来と2分前の過去を映すドロステレビに支配されているから、そうした映画的快感とはまた異なる別の原理で動いている。酒井さんかなあ…「これまで誰も見たことがない映画」と言ってたけれど、むしろ、『ドロステ』は(庵野的な意味での)映画ではないと言ったほうが良いのかもしれない。
・演劇?
それでは『ドロステ』は演劇なのか。たとえば『12人の優しい日本人』や『櫻の園』から『カメラを止めるな!』などへと至る演劇的映画の系譜に連なるのだろうか。ある意味ではYesだし、ある意味ではNoだ。長回しをして役者の演技を画に収めていく辺りはたしかに演劇的。ただ、かなり細かに時間で管理されているから、とくにヨーロッパ企画的な自由さ…遊びがない。
ヨーロッパ企画はもともと、脚本の上田さんが書いたプログラムの上でプレイヤーたる役者陣が自由に遊ぶような作り方をしてきた。ゲーム的演劇というのかな…。そうした組み合わせがヨーロッパ企画の特徴なのだけれど、この映画ではその「遊び」の部分が消えている。
プログラムにしたがってカチッと作られていて、きちんと時間通りに演じなきゃいけない窮屈さとか、緊迫感のようなものが画面から伝わってくる。それが面白くもあり、ヨーロッパ企画ファンとしては少しさびしくもあり…。
・ドキュメンタリー?
だからこれは、庵野的な意味での映画ではないし、ヨーロッパ企画的な演劇でもない。強いて言えばドキュメンタリーにもっとも近いかもしれない。あらかじめ決められたプログラムの中に、役者陣とスタッフが知恵と肉体と精神とをフル稼働させてどうにかはまり込んで行くという努力を記録したドキュメンタリーだ。予告に「NG Take」が載せられていることもそうした見方を補強する。
その意味では、もうひとつ手前のレイヤーがあっても面白かったのかも知れない。つまり、撮影をしている山口淳太監督を映すカメラがもうひとつ手前にあるという構造。メイキング映像は部分的にその役割を果たしていたけれど、それを脚本の段階から本編に取り入れてしまっても面白かったのかなと。ただ、それをすると「カメ止め」になっちゃうんだよね。
・SF(※設定に関するネタバレあり)
予告にも映っている「ドロステレビ」はカメラとモニターがセット(過去が映るモニター=未来を撮るカメラ、未来が映るモニター=過去を撮るカメラ)になっているから一見ややこしいんだけど、カメラとモニターを分離して考えると分かりやすい。つまり未来カメラで未来モニターを撮ると、未来の未来モニターが撮れる。過去カメラで過去モニターを撮ると、過去の過去モニターが撮れる。
それがドロステ構造(再帰的構造)になっているというのはまた少し別の話で。カメラで撮った映像を映すモニターをそのカメラ自身が撮っているから、モニターの中で自らが撮った映像が繰り返されていく(これは別に今すぐ撮れる―冒頭に載せた写メがそう)。未来/過去モニターはそこに映るのが、それぞれ2分後の未来/2分前の過去だから、映像が繰り返されるたびにどんどん未来/過去へと遡っていく。
その2つを合わせ鏡のようにして過去から未来へと貫通するトンネルを作ってしまったのが、この映画の肝であり、ある意味では発明だよね。
・未来(※クライマックスに関する若干のネタバレあり)
未来を知った人間の行動がいかに未来に影響するかはわりと解釈の幅があるところやと思う。2分後の未来で思い出すのは『NEXT』(2007)だ。この映画ではまず、ニコラス・ケイジが予知した2分後の(脳内)映像が流れる。ケイジは予知した未来を回避するために行動し、結果として予知したその未来は訪れない。そのようにして未来は改変されていく。
『ドロステ』の未来モニターに映るのは果たしてどちらなのだろう。改変される前の未来か。それとも改変された後の未来か。中盤までの描写では改変された後の未来が映っているように見える。未来モニターにしたがって行動した結果がすでに未来モニターには映っている。その意味で、『ドロステ』での未来は確定されたものだと言える。でもあのクライマックスは…?
僕はあの場面はむしろ過去を「騙す」のかと思ったんだよね。確定された未来の中で、それでも自分たちの選択の幅を維持するというか。まさに『サマータイムマシンブルース』がそうだったように。だけど、今作では上田さんはその選択をしなかった。あの場面では、ある意味で設定を壊している(ように見える)。それはいったい、どういう意味があったんだろうな…
・運命
登場人物たちの呑み込みの早さも印象的。「矛盾が生じると怖い」と積極的に未来モニターにしたがうように行動していく。その辺はヨーロッパ企画らしいとも言えるんだけれど、あのクライマックスに焦点を合わせるには、もっと運命的な描写にしてもよかったのかもしれない。したがう意志がなくても運命的にそうなってしまうという描写を積み重ねていくと、あのクライマックスでの選択がより活きたのかなと。
たとえばヨーロッパ企画の舞台『出てこようとしてるトロンプルイユ』では、絵から出てくる怪物に襲われるのを回避しようとしても否応なくそこに呑み込まれてしまうという運命的な描写を積み重ねていた。『ドロステ』は「時間もの」ということもあってみんな『サマータイムマシンブルース』を引き合いに出すけれど、じつは本来『出てこようとしてるトロンプルイユ』に近いものだったんじゃないかという気もする。
・ドロステ
ただ、そういう風に他の作品を尺度にして見ても捉えきれない部分がどうしてもあって。『ドロステ』は結局、『ドロステ』であって、それ以外のものではない。映画として見ても捉えきれないし、演劇として見ても捉えきれないし、ドキュメンタリーとして見ても捉えきれない。『サマータイムマシンブルース』とも違うし、『出てこようとしてるトロンプルイユ』とも違う。
なんかヌエみたいな性質を持っていて、ぼくはまだこの作品を客観的に評価できない。どの基準で評価して良いんだか分からんもん。むしろ、そういうものを作ってしまったところが奇跡的なのかな…という気もする。
―(評価不能)
映画『ドロステのはてで僕ら』予告編

