記憶にございません!(3.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

記憶にございません!

監督:三谷幸喜

概要
 『ザ・マジックアワー』などの三谷幸喜がメガホンを取った政界コメディー。国民から全く支持されていない総理大臣が記憶喪失になったことから起こる騒動を描く。主人公の総理大臣を、三谷監督作『ステキな金縛り』などに出演してきた中井貴一。『海を駆ける』などのディーン・フジオカ、『マチネの終わりに』などの石田ゆり子、『体操しようよ』などの草刈正雄、『64-ロクヨン-』シリーズなどの佐藤浩市らが出演する。(シネマトゥデイより)

感想
 いまを去ること約20年前。「総理と呼ばないで」という三谷(脚本)ドラマがあった。田村正和演じるサイテー総理が「戦後政治」に幕を引くまでの話。それなりに好きなドラマだったけれど、三谷さんの政治認識ってこの頃から大して変わってないんだろうな…と。

 「政治家なんてロクな人間じゃない」。「ロクな人間が政治をやればもっとマシな筈だ」。そんな浅はかな思い込み。政治の問題というのは、その人間に政治理念があるかどうかじゃない。理念Aと理念Bがあるとして「あなたはそのどちらを選ぶんですか」という選択の問題だ。自らと理念の違う人間を蔑む必要なんてどこにもない。

 そりゃあ政治家にだってピンキリはある。でも、日本のドラマや映画はとかく「キリ」の政治家ばかり出したがる傾向が(かつて特に)あった。それはつまんないよ。そうしておいて「政治不信」がどうのって、ただのマッチポンプ。世の中、そんな時代じゃもうないんだ。

 もちろん、そうした点がこの映画の本質じゃないことは分かる。ただ、そうした底の浅さは、三谷さんの中にもう何も引き出しがないんだろうな…ということを強く感じさせた。この映画は笑いも何もかもが表層的だ。そうしてすべてが古臭い。作劇もキャラクター造形も何もかもが。

 ハリウッド黄金期の映画が好きな三谷さん。映画監督としては、ずっとその蓄積でやってきた感があるけれど、それも尽き果てている。この映画の冒頭、ハンディを使った場面があって、そこだけは「お…三谷さん変わったか…」と感じさせたのだけれど、何も変わってなかったね。

 彼は、すべてを自らの手の届く範囲の物語に収束させてしまう。それがやり方なのは分かるけれど、でもそうすることによって、清州会議もただの町内会議のレベルにシュリンク(縮小)させてしまった。これもまた同じだ。

 『ラヂオの時間』や『みんなのいえ』は、彼の経験がストレートに出た作品だった。ところが近年は、『清須会議』にしろ、『ギャラクシー街道』にしろ、本作にしろ、彼とは縁遠い世界の話ばかり。それを無理やり手の届く範囲の話に落とし込むから変な「ズレ」が生じる。単純に、リアリティが足りないんだ。結局、ただ目先を変えただけの珍品が並ぶことになる。

 本作は、とある人物との邂逅を描いたラストシーンで幕を閉じる。まったく記号的な処理。まるで人間性の感じられない、ただ物語の作劇のためだけに作られたキャラクターとの邂逅。そんなものに誰が感動する?(少なくとも僕はしない)

 この映画は、何も言いたいことのない人間が作った映画だ。政治家を理念のない存在として描いているこの映画自体になにも理念がない。これだったら、「民王」の方が100倍マシだ。この映画は記号の処理しかやっていない。

☆☆☆(3.0)