ヨーロッパ企画『ギョエー! 旧校舎の77不思議』(in 下北沢本多劇場)
怪奇…というのは、科学で説明できないもの。人は理解できないものを恐れ、忌避する。怪奇に限らず、この社会は魑魅魍魎に溢れている。理解できないもの、理解できないこと。人はそれらを恐れ、またそのゆえに憎みもする。
ところが、名前を付けると、それだけで人は何かを理解した気分になる。「あれは○○だ」と言うだけで、それを分かったような気分になる。僕はそうした「ラベリング」の欠点を見てしまうけれど、脚本/演出の上田誠はむしろ可能性を見ているのかもしれない。
ヨーロッパ企画の面々は、軽やかにリズミカルに怪奇を通り抜けていく。そして、強引にラベリングしてしまうことで、それらを飼いならし、ともに生きていく。なにも恐れることなどないのだ…と。
結局のところ、悪意に満ちたラベリングをすれば憎むべき対象となり、気の抜けたようなラベリングをすれば、どこか愛すべきような存在となる。そこにこそ、この舞台がコメディであることの意味も出てくる。
舞台そのものの印象は、上田演出の舞台『続・時かけ』を思い起こさせた。ヨーロッパ企画のメンバーが周りを囲み、中心には客演の若手俳優たちがいる。そうした構造がとくに。
大学の演劇サークルから始まったヨーロッパ企画は、ずっと等身大の芝居をしてきた。けれど、その彼らもいつしか「おじさん」になった。もちろん、おじさんであることを主題にした舞台をすることも出来るはずだけれど、上田はむしろ、ヨーロッパ企画メンバーを周縁に配置し、中心に若手俳優を起用する道を選んだ。
いまだ世界を新鮮な目で捉える彼らをヨーロッパ企画の面々にぶつけてみることで、何か化学反応が起きるのを期待しているのかもしれない。思い起こせば、前回の『ワンスモア』も、「かつてのSF研」✕「いまのSF研」という対比の構造があった。
若者を劇の中心に据えることによってまた、ドラマ性も生じている。つまり、青春という要素がここには入ってくるんだ。悩み、葛藤、それを乗り越えての成長…そのようなもの。とくに後半はそれを強く感じさせる。
上田の作る舞台は、『ビルのゲーツ』を筆頭にきわめて「ゲーム的」な舞台だった。でも、彼は今むしろ、「ドラマ」を作ろうとしているのかもしれない。
もちろん、(ヨーロッパ企画の本質である)「笑い」は忘れずに。
p.s.
秋元(康)さんが来てたような気がするんだけれど…だれも呟いてないから、気がするだけかな…(^_^;)