「アイドルのメディウム・スペシフィシティ」(TIF雑感) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「アイドルのメディウム・スペシフィシティ」(TIF雑感)

 今更ながらTIF雑感。

 48系ではNMBがいちばん良かったかな…(春フェスの時も良かったし、復調の気配)

 最終日ホットステージのAKB選抜は…。まあ、みんなが知っている曲をやったおかげか、現場は盛り上がったみたいだし、「大トリ」としての務めは果たしたと言えるのかも知れない。

 ただ、僕にはいまひとつピンと来なかった。「AKBが大御所になってしまった…」そんな印象だった。

 最終日、スマイルガーデンとSKY STAGEではいくつか印象的なステージがあった。夕暮れのSKY STAGE、とりわけ「ヤなことそっとミュート」。そして、スマイルガーデンでのさっしープロデュースの「≠ME」のデビューステージ。



 そこで僕が感じたのは…彼女たちが生きているということ、それ自体の力。ラテン語のanimaが「魂」と「息吹」を表すように、息を吐くということはそれ自体が生きていることの証だ。僕らは一秒一秒、魂を燃やしながら呼吸をしている。「歌う」という行為は、そうした魂/息吹を凝集させて吐き出すということにほかならない。

 ヤナミューなでしこのハイトーンの絶叫(上動画13:55&15:00)、≠ME冨田菜々風の少しドスが効きすぎた歌声(下動画18:40)からは、たしかにそのようなものが感じられた。彼女たちが生きてきた中で感じた、あるいは、いま感じているもの――苦悩、緊張、高揚、喜び、悲しみ、楽しさ、寂しさetc.――つまりは彼女たちの実存が歌声に結びついていた。

 それは時に荒々しく、時に不器用ではあったかも知れないけれども、そこに燃え盛る魂の輝きがあるから、僕らは「彼女はいま何かを言おうとしている」と耳を澄ませる。



 …ホットステージのAKB選抜は、彼女たちの実存と歌声とが結びついていないように見えた(むしろマイクを壊した十夢が「無音」で歌ったところに、いちばん実存を感じた)。

 他のグループと比べる必要はないと思うかも知れないけれど、でもTIFってのはそういう場所=否応なく比較される場所だと僕は思っている。少くとも僕は、何も知らないフラットな状態で見たとしたら、AKBではなく、≠MEのファンになっていただろうな…と、そう思えた。

 近年では、48も「生歌」を披露することが増えている。AKB選抜も半分くらいはマイクオンだったじゃないかな…。それは当然の流れだと思うけれど、ぼくは激しいダンスの時にこそマイクをオンすべきだと思う。そういう時にこそ、その人独自の、その瞬間にしかない呼吸/身体性…息切れ、かすれ声などなど…が前面に出る。それが人を惹き付ける。

 生歌を売りにした「AKB紅白」(2018)でもいちばん面白かったのは「No Way Man」だった。生歌でやるからこそ、負荷の高いダンスにした方が面白いんだ。その点、≠MEにああいうパフォーマンスをさせた指原莉乃は良くわかってる。いかに不安定で荒削りでも、そこに燃え盛る魂の輝きがあれば人を惹き付けられる。それはまた、ここ10年、数々の地下アイドルが証明してきたことでもあるだろう。

 20世紀、美術を支配したのは「メディウム・スペシフィシティ」(媒体の固有性)という概念だった。かつて絵画は、それが絵画――平面の布地/板に絵の具で描かれたもの――であることを隠すものが優れているとされていた。たとえば、絵であることを忘れさせ、その人がまさにそこに生きているように思わせるのが優れた肖像画だった。

 しかし、他の芸術にはない絵画の独自性を考えた時には、絵画という媒体の物理的性質…平面の布地/板に絵の具で描かれたもの…は、むしろ活かすべきものとなる。ゆえにこそ、20世紀絵画は錯覚の奥行きを失い、具象性を失い、それこそ「平面の布地/板に描かれた絵の具」以外の何物でもなくなっていく(cf.モンドリアン)。


Composition II in Red, Blue, and Yellow

 アイドルもまた、ひとつのメディウム(媒体)だと僕は思う。したがって、ここで問うことが出来るのは、かつての絵画のように描こうとする対象=曲の世界観を重視するのか、それとも20世紀絵画のようにメディウム・スペシフィシティ=アイドル自体の身体性を前面に押し出すのかという問題だ。

 AKBは…プロデューサーが作詞家だということもあり、主戦場が(ある程度)物語性のある公演だということもあり、前者=曲の世界観を重視する傾向が強かったように思う。とかく批判されがちな「口パク」もまた、そういう文脈で捉えることが出来るだろう。口パクにすれば、少なくとも破綻(媒体の物理的性質によって作品世界に付けられる傷)は免れる。

 かつてはそれでも良かった。プロデューサーとメンバーの距離が近く、(視点はどうあれ)彼女たちが歌う曲は等身大の彼女たちと結びついていた。前者=曲の世界観を重視しながらも、それでもちゃんとアイドルというメディウム――彼女たちの実存――と結びつく部分はあったんだ。

 でも今は違う。プロデューサーはもはやAKBに興味を失ってしまった。それに、かつての曲を歌ったとしても、それは彼女たちの今とは強く結びついていない。ゆえにすべてが「演技」になってしまう。僕はそこに魂の叫びを聞き取ることができない。TIFのホットステージでの「彼女たちの実存と歌声とが結びついていない」という感想もまた、そこに由来しているだろう。

 だから、いまこそAKBは「メディウム・スペシフィシティ」の方に舵を切ってみてはどうか。アイドルというメディウム、彼女たちの息吹/身体性それ自体を活かす方向に。