「芸術と社会」
(※この記事に出てくる固有名詞は検索しないことを推奨します)
「芸術」なんて怪しげなものを10年も学んでいると、ある種の感覚が鈍っていく。ヌード画/ヌード写真を見てもなにも感じなくなるし、どアップで性器を描いたクールベの作品や性交シーンを描いた北斎の春画を見ても、単にそういうものとして受け止めてしまうようになる。
でも、だからこそ怖くもある。どこか世間の感覚とズレてやしないか…と。そんなことを考えている昨今、こんなニュースが飛び込んできた。
「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴
これ、僕にとっては他人事じゃいられない。なんせ、僕自身、来期の講義で会田さんの作品を取り上げようとしているからだ。
芸術なんて別に高尚なものではないし、鑑賞者にとって常に心地よいものだったわけでもない。むしろ、紀元前プラトンが「詩人追放」を唱えた時代から、ある種の人たちにとっては社会規範を逸脱する不快なものだった。
会田誠の作品もまたそうした文脈で語り得る。「芸術と社会」というテーマで講義をやるなら、彼の作品は外せない。多くの人が彼やあるいはダミアン・ハーストの作品を「不快」に思う。「芸術」と「社会」の間の摩擦は、彼らの作品においてもっとも先鋭的に現れる。
そして、そこにこそ彼らの作品の真価がある。多くのことが「あり」になった現代社会において、彼らの作品はそれでもなお多くの人に「これはありなのか?」と問いかける。かかるがゆえに、芸術として優れているとも言える(追記:今日に生きる僕らは、彼らの作品を通してのみ、たとえばマネの《草上の昼食》が当時の社会にいかなる拒絶反応を引き起こしたかを理解できる)
とは言え、誰の目にも触れる場所で展示したらそれはやはり問題だろう。だからこそ、森美の展覧会などでは「ゾーニング」が行われたわけだ。ただ、大学というアカデミックな場で、事前に告知した上でアーティスト本人が取り上げて、それで訴えられるって、それじゃあもう講師はどうしたらいいんじゃ。そんなんじゃもう何も教えられない。そんな芸術学ならいっそやめた方がいい。
…と、思ったのだけれど。この記事自体を講義で取り上げて学生に問いかければいい、ということに気づいた。授業のネタをくれてありがとう、訴えた人!←
(↓以前の記事)
会田誠は僕の目を挑発する。そこには、ある種の「吐き気」がある。嫌悪感と言っても良い。それは、僕の持っている、いわゆる「常識」を照らし出す。僕は、彼の立ち位置が「正しい」んだなどとは思わない。それでも、極端に「常識」から外れているように僕の目から見える彼の立ち位置は、僕の立ち位置を相対化する。それは、余り心地の良いものではない。それこそが、僕の感じる「吐き気」の正体なのだろう。彼の絵の前で僕は、自分の立ち位置の「不安定さ」を知る。そして、そんな僕の「解釈」すら彼は挑発していく。「みんなといっしょ」シリーズの前に立つと、そこからは「遊び」の感覚が感じられる。「シリアスさ」を嘲うかのように、思いつくままに描かれた作品。美術館に展示されるような作品とは対照的な空気。美術館を取り巻く空気こそが「シリアス」なんだということに気付く。彼は「遊び」をもって、それらの「シリアス」を挑発していく。