AKB48劇場公演論(発表原稿) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
とりあえず発表原稿を公開<(__)>



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1.AKB48とは
 AKB48は2005年12月8日、秋元康プロデュースによって誕生した女性アイドル・グループです。卒業と加入を繰り返しながらメンバーは入れ替わっていき、現在ではA、K、B、4、8の5チーム、総勢約120名のメンバーがいます。また、名古屋のSKE48、大阪のNMB48など、2018年現在では国内に5グループ、さらにジャカルタやバンコクなど海外にもいくつかの姉妹グループが存在しています。これらのグループは、それぞれメンバーは異なるものの基本的にはみな同じフォーマットを共有しています。これらのグループを総称してAKB48グループ(以下48グループ)と呼びます。本発表では、適宜48グループの例も参照します。
 秋元がかつてプロデュースしたおニャン子クラブからAKB48を切り分ける最大の特徴は、「会いに行けるアイドル」というAKBの基本コンセプトに集約されています。「夕やけニャンニャン」というバラエティ番組のアシスタントからスタートしたおニャン子クラブは、基本的にTV番組への出演によってファンを獲得していくという、いわば「マスメディア依存型」の戦略を採用していました。秋元は、「夕やけニャンニャン」終了とともに解散したおニャン子クラブの反省を踏まえ、AKB48においてはこれとは正反対の方法を選択します。すなわち、劇場を構え、そこを本拠地として定期的に公演を行うという方法です。TVを介してではなく、ファンが直接に「アイドルに会いに行ける」というのが秋元の採用した戦略でした。AKB48は秋葉原のAKB48劇場を拠点として、現在までほぼ毎日公演を行っています。


 劇場公演というスタイルやその呼び方、また複数の組(チーム)に分かれている点などは宝塚歌劇団を参考にしたと考えられています。AKBは、ライブを活動の中心とするこうしたスタイルによって、2000年代後半から続々と誕生した、いわゆるライブアイドル(地下アイドル)の走りと見なされることがあります。たしかに、AKBの成功がそのきっかけになったことは確かですが、社会学者太田省一が指摘しているように、ライブアイドルそのものは、制服向上委員会など1990年代から存在していました(太田:2011)。
 AKB48を特徴づけるもうひとつのものとして、握手会が挙げられます。基本的にはCD購入の特典として開催されているものですが、今日ではむしろ、握手会目当てでCDが買われているのが現状で、熱心なファンがCDを複数枚購入することも珍しくありません。こうした売り方は「AKB商法」と揶揄されることもありますが、文化評論家のさやわかがこうした特典会それ自体はAKBが登場するはるか以前の1970年代から行われていると指摘しているように、これもまた特にAKBが始めたものというわけではありません(さやわか:2013)。
 そして最後に、毎年初夏に行われている「選抜総選挙」を挙げることができます。これは、CD購入などによって付与される投票権を用いて、ファンが次のシングルの選抜メンバーを自ら選ぶものです。48各グループ合同で行われ、グループ内での最も大きなイベントとなっています。
 AKB48グループと混同されやすいグループとして、同じ秋元康プロデュースによる乃木坂46や欅坂46などの、いわゆる「坂道シリーズ」がありますが、これらと48グループの違いもまた、上述した3点から指摘できます。坂道シリーズは、握手会こそ行うものの、劇場公演を行わず、選抜総選挙にも参加しません。また、坂道シリーズは、一面ではマスメディアへの回帰を図ったグループともいえ、冠番組が活動の主な柱となっています。むろん、AKB48の各グループも冠番組それ自体は持っていますが、その重要度は坂道シリーズのそれほど高くはありません。以上、AKB48の説明を終わります。
 
2.問題提起
 AKB48とよく比較される対象のひとつに、韓国のK-POPがあります。秋元自身、比較対象として盛んにK-POPを取り上げた時期がありました。引用します。

「デコボコさ」を求める。これは、たぶん僕がおニャン子クラブで培ったことだと思うんですけど、いろんな子がいて、ふぞろいのほうがいい。対極にあるのがK-POPで、身長もスタイルも雰囲気も、できるだけそろえるんです。(田原/秋元:2013)

時期的に、ここで彼がK-POPとして想定しているのは、少女時代やKARAといったガールズグループだと考えられます。各メンバーの身長、スタイル、雰囲気を出来るだけ揃えるK-POPとは反対にAKBは「デコボコさ」を求める、つまりメンバーの身長やスタイル、雰囲気を揃えない。AKBのこうした方針は、いわゆる個性重視だと言われることがあります。さらに秋元は言います。

AKB48は、芸というかダンス力、歌唱力、あるいはビジュアルでは、やっぱりK-POPに勝てないわけです。(中略)いまとなって、AKBで何を見せたかったかというと、やっぱりプロ野球ではなくて高校野球なんです。内野ゴロでも全力でファーストに走ってヘッド・スライディングする姿を見せたい。(田原/秋元:2013)

K-POPがプロ野球であるとすれば、AKBは高校野球である。ダンス力、歌唱力、あるいはビジュアルでは敵わないが、それでも一生懸命に全力でパフォーマンスすれば、人の心を打つだろうというのが彼の考えです。
 むろん、AKBメンバーがそれぞれにおいて一生懸命であることを否定するものではありませんが、「下手でも一生懸命であれば良い」という秋元の発言にある種の欺瞞が潜んでいることも否めません。彼は、ある対談において、

ヘタでも一生懸命やっていることが大切です。よくあるのは、「ヘタだから弾いてるふりをさせて、別の音を流しましょう」っていう発想です(中略)でも、それじゃ、おもしろくない。「えっ、AKBってこんなにヘタなの」でいい。(田原/秋元:2013)

と述べています。AKBを知る多くの人はこの発言を聞いて疑問に思うでしょう。なぜなら、AKBはいわゆる「口パク」でパフォーマンスを行うことで知られているからです。それは劇場公演でも基本的には変わりません。
 秋元のこうした姿勢はまた一方で批判の対象ともなってきました。ライターの松谷は、秋元が「「アイドル」を「未熟な存在」と規定し、軽んじている」可能性を指摘し、AKBもK-POPのような完成したパフォーマーを目指すべきだという議論を展開しています。果たして、AKBはプロ野球を目指さなくていいのか。
 こうした疑問に対しては、先の秋元の言葉に従えば、「デコボコさ」を求めるAKBは多様性を志向するのだと、とりあえずは答えることが出来るでしょう。AKBは、単一の理想像といった考えを拒絶します。様々な個性を持つメンバーがいれば、様々な嗜好を持つ(潜在的)ファンに誰かひとりは引っかかるだろうというのがAKBの戦略です。こうした多様性を確保するために必要とされているのが数の多さです。人数が多ければ多いほど、個性もより多様になるだろうからです。しかしながら、人数が多いということはまた同時に、それだけパフォーマンスの水準を維持することが困難になるということを意味します。
 AKB48に加入するメンバーの中には、ダンス経験者もいればまったくの未経験者もいます。呑み込みの早いメンバーもいればそうでないメンバーもいます。それでも大半のメンバーはレッスンを経てやがてはステージに立つのですが、ある一定の水準に達しない限りステージに立つことは認められません。たとえば、2017年から2018年に行われた「レッツゴー研究生!」公演の初日は、当初16人での公演とアナウンスされていたものの、最終的には出演予定メンバーの一人が、この公演のプロデューサーである現役メンバー村山彩希の判断により公演から外されています。
 ただし、この基準がたとえばK-POPのそれと比べて高いかと言えば、おそらくそうではないでしょう。「48グループは人数が多いので、どうしてもひとりひとり[をトレーナーが]見るということが難しく」(村瀬:2018)、上達するかしないかは本人の努力次第の部分があると言われます。
 こうしたパフォーマンス技術の問題が前面に現れたのが、2018年、韓国で制作されたオーディション番組、『PRODUCE48』(通称プデュ)です。この番組には、韓国側の候補生に加えて、48グループのメンバーが多く参加していました。数ヶ月に及ぶオーディションの過程で48メンバーの技術的/精神的成長が見られ、また逆に、韓国の視聴者が日本的なアイドルの魅力に気づくなどしながら、最終的に48メンバーからは宮脇咲良、矢吹奈子、本田仁美の3人が選ばれ、日韓合同グループIZ*ONEの一員としてデビューを果たしました 。
 数ヶ月に及んだ番組を振り返れば、48メンバーは当初、韓国との文化の違いに戸惑い、そして韓国人トレーナーを戸惑わせました。初日に行われたパフォーマンス審査における、「(48グループのオーディションに)何で選ばれたんですか? 何かがあるから選ばれて活動しているんでしょ?」「日本では、[ダンスの]息を合わせるのはそれほど重要ではないの?」という振付師ペ・ユンジョンの素朴な疑問は、両者の文化の違いを如実に表していました。
 ペの疑問に対する48メンバーの答えは、「ダンスを合わせるよりは、愛嬌の方が日本のアイドル」(今田美奈)、「踊りとか歌が全部ってより、楽しいってのを見せる方が仕事」(武藤十夢)といったものでした。二人の回答に共通していることは、彼女たちには踊りや歌の他に求めるものがあるのだということでしょう。ここでは、プロ野球と高校野球という構図では捉えきれないものが出てきています。プロ野球も高校野球も同じ野球である限り、その評価基準は同様のものになる筈です。一方、AKB48が求めているものが、踊りや歌以外にあるのならば、それは同じ基準では測れません。彼女たちが、「愛嬌」や「楽しさ」という言葉で言い表そうとした、この別の何かを言語化することが、本発表の目的になります。とりわけ、48グループの原点である劇場公演において、これらはいったいどのような形で現れているでしょうか 。言い換えれば、僕らファンはいったい、劇場公演において何を見、何を感じているのでしょうか。

3.先行研究
 AKBにおける「別の何か」とはいったいどのようなものでしょうか。まずは先行研究に当たることにしましょう。AKB48に関する書籍は数多く出版されており、その内のいくつかは学術的な内容を備えています。その多くは社会学や経済学などの観点から分析するものです。たとえば、文化社会学者の香月孝史はいくつかの例を引きながら、これまでハイコンテクスト、ローコンテクストという概念を用いてAKBとK-POPの違いが説明されてきたと述べています。彼は、

一般にそのグループなどの背景にある物語を継続的に追い、共有することが楽しみの前提になるとされる日本のアイドル文化はハイコンテクスト、そうした文脈を共有しなくても歌やダンスのパフォーマンスだけで完成度が高いコンテンツとして楽しめるとされるK‐POPはローコンテクスト(香月:2014)

であるとされてきたとし、このような、

ハイコンテクスト/ローコンテクストの区分によって日本のアイドルとK‐POPとを比較すると、歌やダンスの技術レベルといった単一の指標だけによらない評価のありかたを説明しやすい。ハイコンテクスト/ローコンテクストの区分が用いられるのは、歌やダンスの「レベル的」な巧拙という基準では、AKB48の何がファンを引きつけているかが十全に説明できないためである(香月:2014)

としています。香月の引く議論では、AKB48グループにおける別の何かとは、「ハイコンテクスト」であるということになるでしょう。ただし、香月はまた、ハイコンテクストか否かは我々が住んでいる場所によって異なるとも指摘しています。つまり、日本に住んでいる我々は、必然的にAKB48の情報が入りやすいため、それが相対的にハイコンテクストなものに見えるということです。
 『ゼロ年代の想像力』などの著作がある評論家宇野常寛は、関係性消費、ゲームなどの概念を用いてAKB48の受容構造を説明しています。「AKB48のファンたちはメンバーたちの関係性を重視します」(宇野:2013)と宇野が言うように、メンバー同士の関係性は、ファンにとってもっとも興味深い話題のひとつです 。メンバーもまたそうした視線を意識し、仲の良いメンバーとコンビやユニットを組み、それをアピールします。こうしたメンバー同士の関係性は、それぞれのメンバーを継続的に追いかけないと見えてこないものです。したがって、関係性消費は先のハイコンテクストなものの一例であると言えるでしょう。
 宇野はまた、ゲームという概念を用いてAKB48を説明します。80年代において大塚英志はすでにゲームという言葉を用いてアイドル・グループとファンとの関係を評しています。ここで分析の対象となっていたのは、おニャン子クラブでした。大塚は云います。

秋元康で特筆すべきことは、送り手と受け手の情報の隔差を無化した点である。(中略)秋元康はあらゆる機会に自らのノウハウの一切をファンに見せてしまう。業界の「手の内」をファンに共有させることで〈アイドル〉は一定のルールに従って運用されるゲームとなる。(中略)プログラム化されているメディアのからくりをあっさりと消費者にオープンしてそこに彼らを参加させるのが秋元康の戦略である。素材としてレコードデビュー前の少女がいて、彼女を売り出すコンセプトはこうで、それに従って出てくる歌詞はどうなっていくか―企画書というブラックボックスの中にあったものを秋元康はゲーム化することで、そのプロセス自体を<商品>としてしまった。(大塚:1992)

つまり大塚は、秋元がその手の内を自らファンに明かしてしまうことで、このアイドルをどう売り出すかなどを考えるというゲームにファンを参加させていると指摘しているのです。宇野はこのことを念頭に置きつつ、おニャン子クラブとAKBとの差異を指摘します。

[素人がアイドルとしてデビューし、成長していくという]物語はオーディションの審査内容を制作側が握ることで、かなりのところまでコントロール可能である。(中略)80年代当時の秋元のプロデュースは、一貫して舞台裏 を「半分見せる」ことで、「ダダ漏れ」を行っている「かのように」思わせながらも、その実メディアの担い手たちのコントロール下に置くという発想に貫かれている。(宇野:2011)

宇野はこのように述べ、おニャン子クラブのような80年代アイドルは、裏側を半分見せることで、一見、視聴者をゲームに参加させているように思わせながらも、その実はメディアの担い手たちがコントロールしていると指摘します。それに対して、

AKB48はある種の人材育成ゲームだと言えるでしょう。ファンが「推したい」と思った人に投票し、ゲームに参加し、その自己実現を後押しするゲームです。ここには未完成なものを応援することでレベルを上げていく、というゲームが成立している。(中略)だからこそ、初めから完成度が高いものが登場してもファンはおもしろがってくれない。こうして考えたとき、AKB48に対して楽曲がよくないとか、歌が下手だとか、ダンスがうまくないというような批判をしても何の意味も持たないことがよくわかると思います。(宇野:2013)

AKB48は総選挙への投票をはじめとした応援によってメンバーを後押しし、その目標達成に対してファン自らが参加するゲームであると宇野は考えます。宇野の用いる関係性消費やゲームという概念は、AKB48のファンが、普段、何を見て、何を感じ、何をしているのかを効果的に説明します。
 ただし、宇野の議論では、活動の原点である劇場公演に関して、それがいかなる体験かという分析はなされていません。宇野は、

まず「劇場公演」ですが、これがAKB48の根幹をなす活動です(中略)AKB48の「本体」がこの劇場公演だと言えます。雑誌、テレビといったマスメディアへの露出はあくまで「外仕事」と呼ばれるオプションにすぎません。(宇野:2013)

と指摘しながらも、その本体についての議論はなおざりにされているのです。宇野に限らず、劇場公演を、特に美学的あるいは芸術学な観点から研究するものはほとんど見当たらないのが現状です。AKB48は成長の過程を楽しむゲームであるとして、一回一回の劇場公演ではいかなる体験が生じているのか、彼らの議論は説明しません。
 『アーキテクチャの生態系』などで知られる社会学者の濱野智史は、『前田敦子はキリストを超えた』という挑発的なタイトルの書籍において、劇場公演における自らの体験を詳述していますが、それは彼の個人的な体験談に留まり、そこから彼の専門である情報社会論、そして彼の専門外である宗教学へと話が接続されます。
 女性アイドルという枠組みにまで範囲を広げると、美学的な見地からの研究も視野に入ってきます。代表的なものとして、美学者安西信一による『ももクロの美学』が挙げられるでしょう。安西は、古今東西の様々な理論を用いて、アイドル・グループ「ももクロ」(ももいろクローバーZ)の魅力を分析しており、この書籍はさながら、アイドル美学の見本市という様相を呈しています。たとえば、ある章では、四方田犬彦の「かわいい論」との接続が試みられます。

四方田犬彦氏は、『「かわいい」論』でいう。日本文化では、「いまだ完全に成熟を遂げていないもの、未来に開花の予感を持ちながらもまだ充分に咲き誇っていないものにこそ、価値が置かれる」。いいかえれば、「完成されたものをあえて遠ざけ、拙くも未完成のものを愛でるという美学」である。「かわいい」という美的カテゴリーはあまりに広く曖昧であり、それを論ずる余裕はないが、ももクロが、この意味で「かわいい」ことに疑いはない。(安西:2013)

こうした安西の議論は、AKBとももクロの共通点や差異を意識しながら進められていくため、共通点の部分はAKBにも応用可能です。「拙くも未完成のものを愛でるという美学」が、ももクロのみならずAKBにも当てはまることは明らかでしょう。
 安西の議論はまた、ライブでの体験にも及んでいます。ライブの際に行われるファンの反応に関して、安西は、哲学者市川浩の身体論を引きながら、ももクロのダンスを真似る振りコピを「同型的同調」、ももクロに応答するコールやいわゆる「ヲタ芸」を「応答的 ・役割的同調」と分類します。さらに、それぞれにおいて「顕在的同調 」と「潜在的同調 」があります。彼は自身を、ライブ中もじっと身動きしない、いわゆる「地蔵ヲタ」であるとしているのですが、それにも関わらず心の中では、つまり「潜在的」にはももクロのパフォーマンスに同調していると述べています。ライブ会場の観客たちは 、誰もがももクロのパフォーマンスに導かれ 、今ここにある大きな全体へと同期する、と安西は言います。彼は一方で、「ももクロの全力のダンスは、たしかにダンスの専門家からすれば、気ままで荒削りかもしれない(中略)グループ全体としてはときにバラバラな印象さえ与える」(安西:2013)としながらも会場全体では一体感があるとするのです。
 こうした議論はAKBの劇場公演を分析する際にも役立つでしょう。ただし、ももクロのライブに関する安西の記述は、おそらく千人から数万人規模の会場で行われるライブ・コンサートに限られています。定員250名のAKB劇場の公演には、また別の様相が現れている筈です。以下では、主に発表者自らの体験と濱野の体験談、さらにメンバー自身の発言とを基に、AKB劇場公演において、彼女たちが「愛嬌」や「楽しさ」という言葉で言い表そうとした「別の何か」が如何なる形で現れているかを検証します。

4.一体感を阻害する柱
 AKB48はA、K、B、4、8の5つのチームから編成されており、各チームは、秋葉原のドン・キホーテ8階にあるAKB48劇場において、日替わりで公演を行っています。それぞれの公演では、各チームの内16人が出演します。サッカーなどの団体スポーツにおける、スターティングメンバーとベンチメンバーの違いを考えると分かりやすいかも知れません。また、各チームはそれぞれ異なる演目を持っており、2018年12月現在の演目は、チームAが「目撃者」、チームKが「RESET」、チームBが「シアターの女神」、チーム4が「手をつなぎながら」となっています。こうした演目は、数ヶ月から長ければ数年間上演され続けます。また現在では、こうしたチーム公演の他に、著名人公演として、振り付け師の牧野アンナや作曲家の井上ヨシマサ、あるいはAKB48の現役メンバーである柏木由紀や村山彩希などがプロデュースした公演も行われています。劇場公演はすべて、DMMという配信サイトで生中継されており、当日深夜にはすべての公演がアーカイブ化されます。先に述べたように、劇場公演という呼び方やそのスタイルなどは宝塚歌劇団を参照したものだと考えられますが、AKB48の「公演」は、曲の並びなどによって感じられるゆるやかな物語性はあるものの、ミュージカルやオペラのような明確な物語があるわけではありません。その意味において、一般的な音楽ライブにより近いものだと言えるでしょう。
 さて、劇場公演においては、どのような体験がなされているのでしょうか。先に引いた安西の議論を足がかりにして、話を始めることにしましょう。安西がももクロのコンサートにおいて感じたのは会場全体の一体感でした。そのような一体感がAKBの劇場公演にあるかと言えば、それはやや微妙であると言わざるを得ません。僕自身の経験を言えば、AKBの劇場公演においてそのような一体感を感じたのは、今年10月31日「レッツゴー研究生!」公演の最後に披露された楽曲『抱きつこうか?』における「16期コール」の一回だけでした。この公演はリバイバル公演として、ハロウィンの日に一回限り開催されたものであり、通常の公演とは意味づけが異なります。通常の劇場公演においては、こうした一体感はさほど感じられないと言って良いでしょう。


 その理由としていくつかのことが考えられますが、もっとも分かりやすいものとして、劇場の中央に聳える二本の柱の存在が挙げられます。「二本柱」はまた、AKB劇場の代名詞となっており、AKBの公式ファンクラブもまた「二本柱の会」という名称です。他ならぬこの「二本柱」の存在によって、会場全体の一体感は損なわれます。たとえば、柱の外側に座った場合、位置にもよりますがステージ中央はほとんど見えません。逆に柱の内側に座った場合は、ステージの上手下手が見えません。滅多にないことですが、仮に柱の前方、最前列に座れた場合も、花道はやはり柱に遮られて見えません。AKB劇場においては、ステージの全体を見渡せる席というのがそもそも存在しないのです。
 こうした劇場の構造はまた、ステージ上のメンバーのパフォーマンスにも影響を与えます。劇場公演を観覧して気付くことは、ステージ中央にいるメンバーは観客席のセンターブロックに向けて、ステージの上手、下手にいるメンバーはそれぞれ観客席の上手、下手ブロックに向けてパフォーマンスするということです。メンバーは常に同じ場所にいるわけではなく、次から次へと場所を移動していくのですが、それぞれの場所の目の前に向けてパフォーマンスすることは変わりません。つまり、劇場全体が二本の柱によって三分割されているのです。こうした劇場において会場全体の一体感など、のぞむべくもありません 。
 ここまでの段階で、僕らはAKBの劇場公演をいわば身ぐるみ剥がしてきたわけです。パフォーマンス技術にも、会場の一体感にも欠けているところがある。さらに、一生懸命と言いながらも口パクである。もはや、どんな幻想もそこには残されていません。彼女たちの手元には、一見、劇場公演とは関係なさそうな、関係性消費とゲームという概念、そして、はなはだ心もとないヲタたちのコールが残されているだけです。しかしながら、このようにすべての幻想を剥ぎ取った後に残るものがあれば、そこにこそ僕らが劇場で体験しているものがあるでしょう。次章ではその部分に切り込んでいくことにしましょう。

5.埋められるべきものとしての余白(コール/MIX)
 安西の議論を振り返れば、彼はももクロのダンスを真似る振りコピを「同型的同調」、ももクロに応答するコールやいわゆる「ヲタ芸」を「応答的 ・役割的同調」と分類していました。AKB48の「現場」においてもこれらは行われるのですが、狭い上に多くの席が座席の劇場においては「ヲタ芸」はほとんど見られません。振りコピもさほど多くはない印象です。ファンの反応の大半を占めるのは、やはりコールでしょう。
 メンバーの名前を叫ぶコールは劇場公演においてもっとも顕著に現れるファンの反応です。また、MIXと呼ばれる掛け声も多く行われます。さらに、チーム8においては口上と呼ばれる長文の掛け声も行われます 。こうしたコールやMIXはある程度発動するタイミングと掛け声のパターンが決まっているのですが、それは特に劇場やメンバーから指示があるわけではありません。ファンの側から自然発生的に生じ、そして定着していきます。
 2017年7月28日に行われた「レッツゴー研究生!」公演の初日では、オープニング曲『快速と動体視力』において、この瞬間までセットリストを知らなかったファンたちが、それにも関わらずMIXを発動させるということがありました。この曲は2013年に発売されたものであるため、ファンには耳馴染みだったということが大きな理由でしょうが、このMIX発動にはまた別の要因も絡んでいました。この公演をプロデュースした村山彩希は『快速と動体視力』の選曲理由について次のように述べています。

オープニングは、ちゃんとファンの人がコールを打てるように、イントロの長さとか聞いて、「あ、打てるね」「あ、打てないね」っていうのをやって、曲の組み合わせをやったんですよ(中略)ファンの人が、初日の時も、まだどんな曲が来るとかも知らないのに、聞いた感じでMIX打っててくれてて、それが凄いうれしかったのを今でも覚えていて。(「AKB48の明日(みょうにち)よろしく!」2018年3月28日)

つまり、村山は意図的にコールやMIXのしやすい曲を序盤に持ってきたのです。そのため、初日にも関わらずMIXが発動し、「それが凄いうれしかった」と彼女は述懐しています。このように、村山は、こうしたコールやMIXがあって初めて公演が完成すると考えています。こうした考え方においては、前奏や間奏などは単にそれ自体のものではなく、コールやMIXが入るためのいわば隙間、空白として捉えられます。
 先に述べたように、こうしたコールやMIXは劇場やメンバーから指示されて行うものではありません。村山をはじめとした送り手は、あくまでもそこに入り込むための隙間を用意するだけであり、コールやMIX自体は、受け手であるファンの側から自然に発生していきます。たとえば、「レッツゴー研究生!」公演では、それまでこの世界には存在していなかったコールが誕生しています。先に触れた『抱きつこうか?』という楽曲における「16期コール」がそれです。2018年1月5日にこの楽曲が初お披露目された際には、「16期コール」はほとんど影も形もないものでした。公演を繰り返す内に、この曲のこのタイミングで「16期コール」を行うという合意がファンの間で自然に形成されていきました。
 AKBに限らずライブアイドル文化は概して、受け手が参加するための余白が多い文化です。たとえば、三重のご当地アイドル「煌めき☆アンフォレント」の楽曲、『幻影★ギャラクティカ』には、それ自体だけを聴くと明らかに不自然な余白があります。ライブパフォーマンスではそこに、アイドル文化における代表的なコールである「イエッタイガー」が入ります。この楽曲はファンの「イエッタイガー」が入ってはじめて完成するのです。
 このような文化に慣れ親しんだライブアイドルのファンは、自ら参加することに意義を見出す傾向があります。そのため、隣接領域のライブに参加した場合には、問題が生じることがあります。たとえば、他のアーティストのライブにおいて「イエッタイガー」などを行い、そのアーティストからたしなめられるといったことがしばしばあります。代表的なものとして、アニメの主題歌などで知られている歌手、酸欠少女さユりがTwitterに投稿した「私は、歌を聴いてほしい。空白は空白というメロディとして聴いてほしい」という文章を挙げることができます。
 さユりの文章と、先の村山の発言では、空白についての考えがほぼ正反対です。さユりは「空白」をも送り手による作品の一部として考えているのに対し、村山は「空白」をファンのコールやMIXによって埋められるべきものとして捉えているのです。ここには、作品受容に関する二つの異なるモードが見て取れます。前者を一方向型、後者を双方向型と言っても良いでしょう。
 こうした作品受容の違いは、先に見たようなK-POPのステージとAKBのステージの方向性の違いも説明します。K-POPのパフォーマンス技術のみをもって前者のステージを優位に置くのであれば、その評者はほぼ完全にパフォーマンスを見聴きするだけの立場に立っています。しかしながら、AKB劇場公演のステージは、メンバーのパフォーマンスのみでは完結しません。評者自身もそこに参加してはじめてその魅力が伝わるものです。

6.埋められるべきものとしての余白2(レス)
 メンバーのパフォーマンスのみでは完結しないという状況は、劇場公演において、また別のところにも現れます。濱野は、「AKB劇場の最大の魅力の一つは(中略)メンバーとの「レス」にあるといってもよい」(濱野:2012)と述べています。レスとは、レスポンスの略であり、本来はファンからのアピールに対してアイドルが反応することを指しますが、今日のアイドル文化においては、メンバーがファンに視線を送ること、あるいはメンバーとファンの目が合うことそれ自体を「レス」と呼んでいます。
 AKBの劇場公演は、メンバーとのこのレスが生じやすい構造になっています。その理由としてはまず、メンバーとファンの人数比が挙げられます。劇場は定員が250人、それに対してステージ上のメンバーは16人です。単純計算で、メンバー1人につき15~6人程度のファンが会場に居ることになります。1時間半から2時間の公演で15~6人のファンと目を合わせるのは、メンバーにとってそれほど困難なことではありません。加えて、二本柱の存在によって偶然性が生じます。ファンは通常、自分がもっとも応援するメンバー、いわゆる「推しメン」を目で追いかけるのですが、メンバーはそれぞれステージ上を動き回るため、柱の存在によってずっと追い続けることは出来ません。こうした時に、他のメンバーのパフォーマンスが目に止まり、そのメンバーとの間にレスが生じることがあります。公演の定番曲『チームB推し』の歌詞に、「パフォーマンスが目をひいたら 推し変したって構いません」とあるように、こうした「出会い」はAKBにおいて推奨されています。二本柱はメンバーとファンの関係性を撹乱する装置として機能しているのです。
 また、公演終了後には、ファン一人一人に目を合わせて見送る、「お見送り」が行われます。ここでファンがその公演の手短な感想などを述べることもありますし、逆にメンバーの方から「見えてたよ」などの声がかけられることもあります。安西がももクロのライブで感じたような一体感よりはむしろ、メンバーとファンとの個人的な関係性が前面に現れるのが劇場公演という場です。
 劇場におけるレスの重要さを物語るものとして、ここでもまた村山の発言を引用します。今年6月6日から行われているチーム4公演「手をつなぎながら」のゲネプロ後に行われた取材において、彼女は『大好き』という楽曲に関して、

記者の方を見つめたのに、誰も私を見てくれなかったのが、ゲネで一番うまくいかなかったところで、悔いに残っている。
https://okmusic.jp/news/270946(2018年12月10日閲覧)

と述べています。この『大好き』という楽曲は、48グループ全曲のなかで、もっともレスが前面に現れる曲のひとつです。この曲では、メンバーがある特定のファンを10秒から20秒程度見つめることが振り付けの内に組み込まれています。ここで、いわば「ロックオン」されたファンにとっては忘れがたい強烈な体験になるのですが、村山がゲネプロで「うまくいかなかった」と述べているように、必ずしも毎回うまくいくわけではありません。ロックオンしたファンが別のメンバーを見ていたり、あるいは目が合ってもすぐ目を逸らされてしまったりします。ここではパフォーマンスの成功が一部分ファンに委ねられています。劇場において、ファンは単にメンバーを見るだけではなく、また同時にメンバーから見られる存在でもあるのです。
  むろん、通常はこのように長時間のレスが発生することはありません。大抵の場合は振りの合間などに瞬間的に発生するものです。こうしたレスの発生には、振りの難度の問題が部分的に関わっています。
 今年5月14日から11月17日まで行われた「アイドル修業中」公演をプロデュースした柏木由紀は、『そばかすのキス』という楽曲について、

『そばかすのキス』は振り難しくないので。全員が一列になったりとか花道も使ったりするので。サビとか手を振るだけだから。ファンの顔見たり、自分のアピールがしやすいように[公演曲に選んだ]。
(『ネ申TV』シーズン28♯7、CSファミリー劇場、2018年6月17日放映)

としています。「アイドル修業中」公演はその公演名から分かるように、出演メンバーの大半がまだ経験の浅い研究生で構成されていました。難度の高い振り付けの曲を選んでしまうと、それをこなすだけで手一杯になり、レスをはじめとしたファンとのコミュニケーションが取れなくなってしまいます。そのため柏木は、あえて難度の低い振り付けの曲を選んだというのです。
 経験を踏むに連れ、メンバーはより難度の高い振り付けの曲においてもレスを行えるようにはなります。しかしながら、より高度なより完成したパフォーマンスを目指すに連れ、こうしたレスを行う余裕がなくなっていくことは明らかです。あらゆる動きが振り付けによって完璧にコントロールされていたら、どこにレスを行う余裕/余白があるでしょう。「ダンスを合わせるよりは、愛嬌の方が日本のアイドル」という今田の発言も、こうした文脈から理解することができます。
 また、こうした余白は単に、ファンとのコミュニケーションを生むだけではありません。先に、メンバー同士の関係性をファンは消費しているのだという宇野の考えを紹介しましたが、こうした余白はまた、メンバー同士の関係性が現れる余白でもあります。たとえば、ある公演(2018年8月23日チームK「RESET」公演)では、実の姉妹である武藤十夢と小麟の関係性が垣間見える場面がありました。手を振る振りのところで、まず妹の小麟が姉にパンチするフリをして、それに対して、姉の十夢が実際にパンチを当ててしまったのです。これまでの二人の関係性や、この場面での二人の表情から、これがある種の愛情表現であることは明らかでした。こうした関係性の現れをファンは楽しみます。ここで、武藤十夢による「踊りとか歌が全部ってより、楽しいってのを見せる方が仕事」という発言を思い出しても良いでしょう。実際、この場面で武藤は振りを完璧に揃えることよりも、妹とのワチャワチャとした関係性の楽しさを見せることを優先しています。振りを完璧に揃えないという未完成さ、言い換えれば余白は、こうした楽しさを見せるために、劇場公演においてはむしろ積極的に必要とされるものです。
 
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まとめ
 ここまで見てきたように、劇場公演においてファンは単に見、聴きするだけではなく、また同時に、レスにおいて見られ、コールやMIXにおいて聴かれもする存在です。たしかに、AKBメンバーのパフォーマンスは、それ自体としては技術的に未完成であり未熟であるかも知れません。しかしながら、劇場公演におけるメンバーのパフォーマンスはそれ自体で完結したものではありません。
 AKB48の劇場公演において、楽曲にある隙間、あるいは振りの未完成さは、それぞれコールやMIXが入る、ファンやメンバーとの関係性が生じ、現れる余白として捉えられています。今田や武藤が、『PRODUCE48』において「愛嬌」や「楽しさ」という言葉で言い表そうとした、歌や踊りとは「別の何か」は、こうした余白をファンと共に埋めるための「愛嬌」であり、またそれがメンバーやファンによって埋められる際に生じる「楽しさ」であると言えます。
 ただし、AKBの劇場公演にはまた別の側面もあります。劇場公演は基本的にいわゆる口パクで行われるのですが、一部の曲ないし曲の一部では、生歌が披露されることがあります。こうした曲や、終盤に披露されるバラード曲では、コールやMIXは基本的に発生しませんし、また、役に入り込むことが求められる楽曲では、レスも生じません。こうした曲においては、ファンは見聴きする一方の存在になります。
 このことに関連して述べるならば、近年、ライブアイドル界において「楽曲派」と呼ばれるジャンルが注目を集めています。楽曲派アイドルはアーティストの歌を聴くという一方向型の受容モードを輸入したアイドルとも言え、そのライブにおいてもコールやMIXは存在しないか、あるいは主要ではありません。このように、一口にアイドルと言っても、様々なアイドルが存在します。AKB48はあくまでもその一例に過ぎません。本発表での議論をライブアイドル全般に適用することも注意が必要でしょう。
 また、数千から数万の規模で行われるコンサートに対しては、特にレスに関する議論を適用できないことは明らかです。ただし、ことAKB48に関しては、近年、大箱でのコンサートを行う際に「推し席」というものを設けています。これは推すメンバーによって観客席が分割されるもので、それぞれの「推し席」の近くでメンバーがパフォーマンスをするという演出も行われます。こうした演出の際には、劇場公演での体験と似たようなものなるため、ここでの議論を応用することができるでしょう。
 以上で発表を終わります。

参考
安西信一『ももクロの美学~〈わけのわからなさ〉の秘密~』廣済堂出版、2013年。
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年。
宇野常寛『日本文化の論点』筑摩書房、2013年。
太田省一『アイドル進化論 南沙織から初音ミク、AKB48まで』筑摩書房、2011年。
大塚英志『システムと儀式』ちくま文庫、1992年。
香月孝史『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』青弓社、2014年。
さやわか『AKB商法とは何だったのか』大洋図書、2013年。
田原総一朗/秋元康『AKB48の戦略! 秋元康の仕事術』アスコム、2013年。
濱野智史『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』筑摩書房、2012年。
『PRODUCE48』第2回、Mnet/BSスカパー、2018年6月22日放映、村瀬紗英の言葉。