無名戦士たちの歌2
1.
グループの中で自らが勝ち上がっていくことと、グループが勝ち残っていくこと。その二つはまるで別のことです。前者の成功をもって、それを後者の成功にまで普遍化することはできません。
個人は勝ち上がっていっても、グループ自体は潰れてしまったなんて例は、アイドル界に山ほどあります。もっとも分かりやすい例では、「橋本環奈」と「Rev. from DVL」ですかね。もう少し48に近い例では、「菊地亜美」と「アイドリング」でも良いでしょう。
須田ちゃんはしばしば、このように、個々が個人として目立てば、それがグループのためになるという主旨の発言を行います。いわば、「個性万能主義」です。ぼくが、「須田亜香里は間違っている」と思うのもまさにその点です。
個人としては評価します。ただし、ある個人が個人として勝ってきたからと言って、その成功体験を、そのままグループの指針として受け入れることはできません。先にも述べたように、個人の勝利はあくまで個人の勝利であり、それはグループの勝利を保証するものではないからです。
現実の世界とは異なり、芸術の世界ではしばしば、「全体主義的」ないし「独裁主義的」な作品が勝利を収めることがあります。典型的なのは宮崎駿作品です。彼の作品には、多くの才能あるアニメーターが参加していますが、すべてが宮崎駿印に統一されています。
むろん、様々な武器を持った人間が居たほうが表現の幅が広がるのは当たり前です。たとえば、『ハウルの動く城』において、荒地の魔女があくせく階段を登っていく印象的なシーンがありますが、(あのシーンを担当した)大塚伸二氏の参加が決まるまでは、ああまで長いシーンにするつもりはなかったと云います。しかしそれは、各アニメーターが好き勝手にやれば良いというのとはまるで別の話です。
スポーツの世界でも同様です。たとえばサッカーでも、ドリブラーやポストプレイヤー、パッサー、色んなタイプがいた方が戦術の幅は広がります。しかしながらそれは、各個人が自分の得意なことを好き勝手にやれば良いということを意味するものではありません。監督はどうすればチームが勝利できるかを考え、必要とあればスター選手であろうが誰であろうが試合から外すでしょう。独善的なプレーをする選手であればなおさらです。
いまの48の問題は、そうした判断のできる人間をまったく欠いているということです。
2.
彼女が今やっているような「アイドルなのに~」という一種のスタンドプレーは、「アイドル」という樹があってこそ成立するものです。その樹にある48という枝にぶら下がり、「ほらほら、こんなところでこんなことやってますよ」というのが彼女です。その樹が倒れてしまったら、その枝が折れてしまったら、何の意味もない。
その「アイドル」という樹は、これまで、無数のアイドルたちが自らの汗と青春をかけて水をやり、培ってきたもの。その枝にぶら下がって、スタンドプレーをする人間ばかりが目立つ昨今。いまや、どこを見ても目立つのは「アイドルなのに~」というヤツばかりです。そうした結果、アイドルは再び「冬の時代」を迎えつつあります。もうこの樹は枯れ果て、倒れかかっている。少なくとも、僕はそう思う。
その上、まだそんなことをやっているのですか? それを人にもやれと?
みんながみんな好き勝手にやりだしたら、この樹はいったいどうなりますか。いま本当に必要なのは、大切なのはむしろ、アイドルというこの樹に水をやり、それを育む無名戦士たちではないですか? ぼくは、彼女たちをこそ支えたい。
むろん、須田ちゃん個人が「個性万能主義」を唱えることは自由ですが、少なくとも僕は、ひとりの48ヲタとして、彼女の考えが48グループ全体の指針となることには同意できません。