北の桜守(3.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
北の桜守
監督:滝田洋二郎
 
概要
 吉永小百合が主演を務めた、北海道の大地を背景にした『北の零年』『北のカナリアたち』に次ぐ“北の三部作”の集大成となる人間ドラマ。『おくりびと』などの滝田洋二郎監督がメガホンを取り、戦中から戦後の激動の時代を死に物狂いで生き抜いた親子の姿を描く。息子を、NHKの大河ドラマ「真田丸」やテレビドラマ「半沢直樹」などの堺雅人が熱演。戦争の悲惨さと、生きることの尊さを伝える物語に心を動かされる。(シネマトゥデイより)
 
感想
 吉永小百合さんのために作られたような映画。でも、その当の吉永さんがミス・キャストっていう…。キャラクターとしては分かるんだけれど…若い時代を演じるのはいくらなんでも無理がある。阿部(寛)ちゃんと一緒に映る場面なんか、奥さんというよりお母さんにしか見えん。「作り物感」が半端ない。
 
 これ、舞台だったら良いと思うんだ。なぜって、舞台ってのは「お約束」で作られている世界だから。ただの書き割りを建物とみなし、女が演じる「男」を男として、男が演じる「女」を女として受け取るのが舞台だ。…と、思っていたら…なんか唐突に舞台を用いた演出に切り替わった…。あれ? 分かってるじゃん…。
 
 この演出を意味不明だと受け取る人がいても不思議じゃない。ただ、ぼくは「アリ」だと思う。舞台ならば70歳overの吉永さんに若奥さんを演じさせても違和感は生じない。戦中のシーンをすべて作るのは(CGにせよ)予算的にも大変だけれど、舞台なら、ただ一言「ここは◯◯」と言うだけで、そこはもうその◯◯になる。そうした諸々を鑑賞者の想像力に委ねるというのは、ひとつのアイデアだ。むしろ、戦中~戦後すぐ辺りの過去シーンはすべて舞台にしちゃっても良かったくらい。
 
 1970年代(劇中における現代)の場面には、舞台演出はほとんど用いられない。ただ、この時代の描写も正直、微妙だったな…。篠原涼子さんの帰国子女設定も無理があったし…(「ゆ~あ~せるふぃっしゅ」とか言ってたぞ)。CGから美術から衣装から髪型から何から、すべてが全体的に嘘くさいというか…。う~ん…「作り物感」があるというのはそれ自体悪いことではないと思うのね。たとえば、『パディントン2』は世界全体を「オモチャ」のように見せることで、意図的に「作り物感」を出していた。その「作り物感」は現実の生々しさを和らげ、あの作品を優しさで満たしていた。
 
 翻って、この『北の桜守』は中途半端なんだ。「リアル」を志向しているのに、技術が伴わずそれに失敗した結果、「作り物感」が出ちゃっているように見える。舞台演出をするくらいだから、ある程度は「作り物感」にも自覚的である筈なのに、そうした中途半端さが出てしまっているのはなぜなんだろうな…。思うに、この映画には、全体のルックを管理している人間がいない。職掌としてはあったとしても、彼/彼女の能力は明らかに足りてない。映画というのは科学や美術や思想…あらゆるものが総結集して作られるもの。予算が足りないからアイデア勝負…というのは、間違ってないのだけれど、結局のところ才能はお金のあるところに集まる…というこの現実。
 
 滝田洋二郎さんは、『おくりびと』でアカデミー外国語映画賞なるものを獲ってしまったけれど、本来はエンターテイメントにこそ持ち味のある人。この映画にも、いくつかそうした持ち味を感じさせるシーンがある。ただ、やっぱり中途半端…。いい話にしたいのか何なのか、後半のあるシーンなんてもう…まるでホラーだよ。脚本もとっ散らかってる。「それでも生きてきた」と言いたいのはわかるけれど。「桜」である必然性もほとんどないよねこれ。
 
☆☆☆(3.0)