メアリと魔女の花
監督:米林宏昌
概要
『借りぐらしのアリエッティ』などの米林宏昌監督がスタジオジブリ退社後、プロデューサーの西村義明が設立したスタジオポノックで制作したアニメ。メアリー・スチュアートの児童文学を基に、魔女の国から盗み出された禁断の花を見つけた少女の冒険を描く。少女メアリの声を務めるのは、『湯を沸かすほどの熱い愛』やNHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」などの杉咲花。脚本を『かぐや姫の物語』などの坂口理子、音楽を『思い出のマーニー』などの村松崇継が手掛ける。(シネマトゥデイより)
感想
誰もが『魔女の宅急便』を連想するであろうこの作品。実際に見た感想は、絵的にはむしろ『ハウル』だし、物語的には『ラピュタ』。いずれにせよ、「自分の世界」というものは感じられない。先行作の印象を駆逐するような何かを感じることは出来なかった。その点では『星を追う子ども』にいちばん近いかな…(~_~;)
2年前だか、日本アニメーションが40周年記念で『シンドバッド』を作っていたけれど、あれと似たような印象もある。今さら感というのかな…。優秀なスタッフに支えられているから、アニメーションとしての出来は良い。でも、なんだか時代にそぐわない…そんな違和感は最後まで拭えなかった。
とくにキャラクター造形が、現実現代を反映してない。パターン化。耐え難い退屈さ。あのピーターが登場した時、メアリとのつんけんしたやり取り。ぼくは「あ~…こういう奴出てきちゃたよ…」って。だって、どう考えても「相手役」だし、つんけんしてたって、どうせいずれは仲良くなって、助けるか助けられるかするんでしょ?
たしかにさ、その点だけ見れば『君の名は』も同じ。でも、やっぱり全然違うんだ。少なくとも、瀧くんというキャラクターは実際に生きている感じがしたんだよ。あの胸を揉むシーンなんて…ただのギャグかも知れんけれど、でもああいう積み重ねでキャラクターは出来ていく。それは、パズーだってトンボだってそうで。
『メアリ』の世界には、人間が生きていない。まるで顔の見えない学生。たとえそれが意図的だとしても、ピーターも、先生も、博士も、叔母さんも、家政婦も、じいやも、みんなみんな、どこかで見たようなステレオタイプなキャラクター。ここには生きている人間がいない。
「動物」という記号を背負っているような動物。まるで魅了しない魔法世界。ああ…もちろん、悪いところばかりじゃない。面白く感じられる場面もところどころにはある。ただ…この映画は、絶望的に「世界」のネジが緩んでいる。
☆☆☆(3.0)
注:以下ネタバレ
…
ぶっちゃけた話をすれば、これ、魔法を原子力になぞらえている(*追記:「電気=魔法」、「夜間飛行=核燃料」「実験装置=原子炉」と捉えた方がより正確かな)。クライマックスの暴走シーンなんか明らかに「メルトダウン」を意識しているだろうしね。『シンゴジ』『君の名は』…と来て、東宝はたぶん、3.11の経験をいかに映画に取り入れるかを考えているのかな…と。
ただ、勘違いして欲しくないのは、ぼくがこの映画を評価しないのは、そこに不満があったからじゃない。だって実際、『シンゴジ』も『君の名は』も、ぼくは高く評価しているわけだから。
もちろん、全部をチャラにしてしまうという、ああいうラストの落とし方が好きじゃないのは確か。手塚さんや宮崎さんもよくああいう解決を用いるけれど、人間の手に負えないものをすべて破壊してしまってそれで万事OK…というような乱暴な解決は、ぼくは好きじゃないし、そもそも現実的じゃない。
だって、「パンドラの箱」はすでに開いてしまっている。ぼくらはすでにそれがある世界に生きていて、それをなかったことには出来ない。ゴジラが東京に居座ってしまう『シンゴジ』のラストは、ドラマ性の点から言ったらカタルシスの感じられない弱いものだったけれど、でも、あれはああせざるを得なかった…と、ぼくは納得できる。だって、実際そうなんだから。
でもこれは…『メアリ』は…魔法を、魔法のある世界を、まさにその当の「魔法」そのものによってなかったことにしようとする。そんなご都合主義的な解決に、いったいなんの意味があるの?
その上、この映画では、結果的にどこまで魔法が否定されたのかが誤魔化されている。だって、「魔法なんか要らない!」とか言っておきながら、最後は魔法の箒で帰っちゃうんだから。「箒ちゃん」とか言って可愛がっているけれど、それも魔法がなくなったら、「ただの物」に過ぎなくなっちゃう筈じゃない。そういうことに対する葛藤が全然描かれていない。このラストシーンがどうしようもなく嘘っぽく感じられるのは、まさにそこで。
魔法の箒は飛んでいるんだから、魔法自体は残っているとしよう。でも、最後、魔力のもとである「夜間飛行」(核燃料…)を、メアリは放り捨てちゃう…それって、そこらに捨てちゃって良いものなの? 「絵的」にはさ…あれ、投げ捨てたあとに「ポワーン」って綺麗になくなって、それで一件落着みたいになっているけれど…でもそれって、あまりにご都合主義じゃない? あれ、なんで「ポワーン」ってなくなったの? ぜんぜん納得できないんだけれど。
これはもちろん、『ラピュタ』とは違う。スーパーパワーを否定するという点では、一見、似たようなラストに思えるかも知れないけれど、でもぼくが(ああいう落とし方が好きじゃないのは確かだとしても)あのラストを…『ラピュタ』のラストをとても美しいと思えるのは、パズーはそもそも人生をかけてラピュタを…天空の城を追い求めてきたから。夢であり憧れであり、そういう対象をぶっ壊そうと決意するからこそ、ラストのあの決断が際立つわけだし、ぼくらの胸を打つ。
でも、この『メアリ』は…メアリは、そもそも魔法になんの関わりもなく生きてきて、それでたまたま魔力を手に入れて、それでたかだか1日か2日だけ魔法を使っただけで。それで「わたしにはもう魔法は要らない!」って、いや、そもそも別に必要としてなかったじゃない…って。
そこの部分、メアリにとって、この世界にとっての、魔法の重要性という部分を描けていない時点で…どうしようもないと思うんだよね。イヤでたまらなかった赤毛を、魔法の力によって肯定出来るようになる、そのくだりをちゃんと説得力を持って描き切れなかった時点で…失敗だと思うんだ。
結局、ここに出てくる魔法は、単に否定されるために出てくるツールに過ぎない。(『ラピュタ』における天空の城のように)魔法の素晴らしさを描き切れていなければ、それを否定し、ぶっ潰してしまうことの重さも出てこない。だって、ただの害悪でしかないものなら、潰したって、この世界から無くしたって誰も文句は言わない筈で。だけど、実際にはそうじゃないわけで。だからこそ、難しいわけで。
キャラクターもね…。ただ否定されるための害悪として描かれた魔法同様に、ただ悪をなすために設定されたような「悪役」。あれも、あまりに分かりやす過ぎて、ただ単に、いずれ倒されるという物語上の役割を果たすために、自分たちの首を絞めるために動いているようにしか見えなかったな…。ちゃんと彼らなりの行動原理があってやっているようには見えなかった。
魔法学校の生徒たちの顔も見えない。上層部がこんな分かりやすく「悪」ならさ、内部からの反発があったり、メアリたちを手助けする奴らがいたっていいわけでしょ? でも、そんなやつはひとりも出てこない。
だから、この世界は全体が「嘘」っぽい。世界に深さも幅もない。ちゃんと人が生きているように見えない。ファンタジーであることと、その世界が「嘘」っぽいということは、全然違う。だって、『ラピュタ』はファンタジーだけれど「嘘」っぽくないでしょ? あそこには、ちゃんと人が生きている。
ぼくがこの映画を評価しないのは、ぼくと考え方が違うからじゃない。違う考え方の、その提示の仕方が、まるで説得力がないからだ。
追記:
これ、エンドア大学を「ジブリ」、魔法を「ジブリの遺伝子」(遺伝子というか…ジブリというブランドが与える力=魔力)と置く読みもあり得ると思うのね。米林監督の自分史として読めるってことだけれど。でも、それも上手くいっていない…というのは、結局、この作品の表現それ自体がジブリの「劣化コピー」にしかなっていないから。
ただ、そう読むとなると、劇中において、魔法でもって「魔法の世界よなくなれ」と言っていることが、別の意味を持ってくる。この映画はまさに、ジブリ的な表現を使って「ジブリの呪縛よなくなれ」って言っていることになるからね。でもそれって、あまりにもアイロニカルというか…それをすることに、なんの意味があるのかよく分からんな…。