エスパー魔美は孤独だ。
1.
女の子向けTVアニメに、いわゆる「魔法少女もの」というジャンルがある。アメリカのTVドラマ『奥さまは魔女』(1964-)に影響をうけた『魔法使いサリー』(1966)を嚆矢として、同時期の『ひみつのアッコちゃん』(1962/1969)、80年代の『クリィミーマミ』(1983)、近年の『プリキュア』シリーズ(2004)に至るまで、脈々と受け継がれているジャンルだ。
この系譜に『エスパー魔美』(1977/1987-)と『美少女戦士セーラームーン』(1992-)を加えることは出来るだろうか。それらは果たして「魔法少女もの」なのか? このことを考えるために、まず「魔法」と「超能力」の違いを考える必要があるだろう。
「超能力もの」は、いわゆる「ニュー・エイジ」の高まりとともに80年代に全盛期を迎え、オウムのコケた95年ころを境に衰退していったジャンルだ。たとえば、大友克洋の『AKIRA』(1982/1988)や、彼がキャラクターデザインを務めた『幻魔大戦』(1967/1983)なんかを代表例として挙げることが出来る。
あるいは、『ガンダム』(1979)のニュータイプを考えても良い。あれはまぎれもなく超能力の一例だけれど、時代が下るに連れ、シリーズを重ねるに連れてその設定は薄まっていき、やがては消えていった。いまでは影も形もない。
少女マンガにおいても、萩尾望都の『スター・レッド』(1978)や竹宮惠子の『地球へ…』(1977)などのSF作品、あるいは山岸凉子の『日出処の天子』(1980)なんかは「超能力もの」に分類できるだろう。この系譜は、80年代の『ぼくの地球を守って』(1986)などに受け継がれていくことになる。
2.
魔法と超能力のもっとも大きな違いは、それが体系づけられているか否かということだろう。魔法/魔術というのは、必ずその背後に魔法/魔術の体系…いわば「魔法世界」が存在している。
「魔法少女もの」は大きく分けて、「サリー」のような生まれつきの魔女か、「アッコちゃん」のような何らかのきっかけで魔力を授かった魔女とに分類できる。いずれのパターンにせよ、その魔力というのは、他の誰か/何かから受け渡されたものだ。
つまり、サリーの場合、両親が「魔法の国」の国王夫妻だから魔法が使えるわけだし、アッコちゃんの場合は、鏡の精から授かったから魔法が使えるわけだ。そして、その魔力を引き出すために何らかのアイテムが必要となる。コンタクトやスティックといったアイテムは、彼女たちが「魔法世界」と結びつくための媒体として考えることができるだろう(追記:サリーちゃんは単なるウィンクで魔法を発動させるけれど…その後の魔法アニメでは、通常、なんらかのアイテムが用いられる)
さらに、こうした「魔法世界」が、中世ヨーロッパの魔女以来の伝統を脈々と受け継いでいるということも重要だ。たとえ異世界として設定されていようとも、それはつねに現実世界の隣にあって、そこに影響を与え続けてきた。だからこそ、魔法は世界を破滅させない。なぜならば、それらの作品世界においては、たとえ魔女狩りなんてものがあろうと、この現実世界はつねに魔法と共にあり続けてきたからだ。
3.
これに対して、「超能力もの」というのは、そうした体系とは必ずしも結びつかない。むろん、そういうものが設定される場合もあるけれど、「魔法少女」が必ず魔法体系/魔法世界と結びつくのに対して、超能力者は基本的にそういうものを必要としない。したがって、通常、「超能力もの」では、「魔法少女もの」のようなアイテムが登場しない。彼らは、他の体系/世界と結びつくことなく、生身の身体のみで能力を発揮する。
初期のSF代表作『ファウンデーション』シリーズに登場する超能力者ミュールが「ミュータント」(突然変異)であったように、たいていの場合、超能力者はこれまでの世界にはいなかった存在として描かれる。たとえば、『ガンダム』における「ニュータイプ」はまさに「ニュータイプ」であって、これまでの世界にはいなかった新たな存在だ。
したがって、時に彼らは「異物」として排除される対象となる。『X-men』がそうであるように、超能力者に対する迫害は人種差別の比喩として描かれる。多くの場合、超能力者は現代世界にとって未知の存在であり、時にはこの世界を破滅に導くほどの力を秘めた存在として恐怖される。
超能力は、遠い宇宙(cf.『スーパーマン』)か、あるいは古の存在と結びつくこともある。ただし、そうした古の存在は「超古代文明」のようなものとして描かれるのが通例だ。遠い宇宙にしろ、「超古代文明」にしろ、現代世界からは遥か彼方にある。魔法のような中世からの連続性よりはむしろ、この世界からは隔たった、あるいはすでに失われたものとして、断絶性が強調される。
超能力者は孤独だ。彼/彼女らは、新たな存在、あるいは(同族が)失われた存在であり、この世界に類縁を持っていない。
『ぼく地球』における「前世」という設定は、そうした超能力者の孤独をある程度において緩和する。彼らは失われた世界の最後の生き残りであると「同時に」、この世界にありふれた存在でもある。彼らは孤独を胸の内に抱えながら、ありふれた人生を生きていく。
4.
それでは、『セーラームーン』と『エスパー魔美』は「魔法少女もの」と言えるだろうか。
『セーラームーン』において、失われた超古代文明という設定は「超能力もの」を連想させる。しかしながら、その残滓がいまだに残り、彼女たちの力の源泉になっているという点は「魔法少女もの」を連想させる。実際、『セーラームーン』ではアイテムが用いられる。
『セーラームーン』が戦隊ヒーローに影響を受けているのは明らかだけれど、それだけじゃなく、あれは「超能力もの」と「魔法少女もの」の双方に影響を受けている。何より、セーラームーンには頼りになる「仲間/同族」がいて、さらには彼女を庇護する世界=魔法世界も存在する。
『エスパー魔美』は設定上、中世の魔女の末裔ということになっている。「魔女・魔美?」のエピソードにも描かれたように、魔美もまた現代の魔女、つまりは魔法少女のひとりとして捉えることは出来るだろう。魔美の超能力に何らかの影響があることが示唆されている飼い犬コンポコは、魔女の使い魔である黒猫のような存在だと考えることも出来る。
とは言え…
高畑くんが作ったアイテムらしきもの(テレポーテーション・ガン)は登場するけれど、それ自体は何の変哲もない仁丹/ビーズを撃ち出すだけだ。彼女はその運動エネルギーを利用してテレポーテーションを行う。テレポーテーション・ガンは必須のものではなく、小石などでも代用が可能だ。
何より、魔美は孤独だ。彼女の友達どころか、彼女の両親も彼女と同じ種族(=超能力者)ではない。魔美のことを超能力者だと知っているのは、ボーイフレンド(高畑くん)と飼い犬(コンポコ)だけだ。その二人(一人と一匹)とて、超能力者としての彼女の苦悩を身をもって体験しているわけじゃない。
世界の中に超能力者はたったひとり。そんな孤独な世界のなかで、魔美はそれをおくびに出すこともせず、おせっかい過ぎるくらいにおせっかいに人助けに奔走する。