「少女マンガの実写化について3」
1.表現形式
なぜ少女マンガは実写化されるのかって話。前回はテーマと舞台の話だったけれど、今回は表現形式の話。
いまの少年/青年マンガのスタンダードは、大雑把に言えば、いわゆる「映画的な表現」を取り入れた手塚治虫さんから大友克洋さんへとつながる線上にある。乱暴な話をすれば、ひとつのコマをひとつのフレームに見立てれば良いわけで、比較的に映像化しやすいんだよね。
でも、少女マンガは違う。少なくともかつては違っていた。宮崎駿さんが少女マンガについてこんなことを言っている。
「少女マンガは、アニメーションになるかというのは、僕らがよく雑談する時の格好のテーマなんですけどね。一人の人間の心の中を、どれほど映像で描写できるのか。実は、それを少女マンガの場合、絵もあるけど、ほとんど字で現してる。字と紙の余白で表現してます。不思議なものが進化してるんです。日本では、少女マンガを映画にしようと始めた途端に、少女マンガは、たちまち少女マンガじゃなくなるんですね、とても面白いことだと思います」
宮崎駿『出発点』132-133頁
手塚さんから影響を受けているのは同じでも、少女マンガは少年マンガとは異なる文法を発展させていった。宮崎さんが言うように「字と余白(間白)で」ってこともそうだろうし、心象を表現するための様々な工夫…背景に花やら何やらが舞ったり、コマと間白の関係が曖昧にされていたり、レイヤー構造が多重になっていたりする。マンガでしかできない=実写/アニメではできないような表現が山とあるから、単純に映像化することが出来ない。
精巧なガラス細工のようになった少女マンガの文法は、感情の機微や哲学的な思想など、高度に複雑なものをそこに取り込むことを可能にし、そこでは独自の文化が発展していった。けれどそれはまた同時に、読者に高いリテラシーを要求するもの、初心者にとっては敷居の高いものともなった。表現が先鋭化して、隘路に入っていったんだ。
ところが、状況が変わってくる。どの辺から変わってくるかはまだ良くわかってないんだけれど…少なくとも僕の感覚では、70年代より80年代、80年代よりも90年代、90年代より0年代の少女マンガの方が「読みやすい」。僕は少女マンガのリテラシーがそんなに高くないから、僕が読みやすくなるってことは、時代が下るにつれて、少女マンガの文法が少年マンガのそれに近くなってくるってことなんだよね。
東村アキコさんとか森本梢子さん*のように、近年、映像化されている作品になると、ほぼスタンダードなコマ割りを用いていて、文法的にはむしろ少年マンガに近いところがある。と言うよりも、少年マンガと少女マンガの境界が曖昧になってきているのかな…。萩尾さんでも、映像化された『イグアナの娘』なんかはやっぱりスタンダードなコマ割りだよね。
(*追記:この2人はもう少し高めの年齢層向けに書いている作家だから…例としてはもう少し違う人を出した方が良いかな…と言うより、単純に高めの年齢層向けの方がコマ割りがよりシンプルだってこともあるのか。実写化作品でも、『アオハライド』とか『ストロボエッジ』、『ひるなかの流星』、あるいは『ちはやふる』辺りは、もう少しコマ割りが複雑だよね。まあ、70年代に比べればずっと読みやすくはなっていると思うけれど)
どうだろう…。分水嶺となったのは、青年マンガだけれど、柴門ふみさん辺りなのかな…。実写ドラマ化のはしりも『東京ラブストーリー』(1991、原作1988)とか、『あすなろ白書』(1993、原作1992)とか、あの辺からだよね。
「漫画という表現主題自体が、ひとひねりした程度の性格のキャラクターを肉づけするくらいならなんとかできるものの、<三ひねり半レベルとなると、もう漫画では無理>」*とか言って、いしかわじゅんさんの逆鱗に触れた柴門さん。「これからは漫画としては疎外されてしまう内省的要素を小説として表現し、小説としては軽すぎる要素を漫画で描く」とも言っていたらしい。これ自体は取るに足らない素朴な文学至上論だけれど、柴門ふみという作家を考える上では、なかなかに示唆的だと思う。
(*いしかわじゅん『漫画の時間』249頁)
つまり、柴門さんは、それまで少女マンガが積み重ねてきたような高度に複雑な造形物に、ほとんど価値を認めていないんだよね。実際、彼女の描くマンガは…なんだろうな、表現としてほとんどクセがないというか。ストーリーと設定とキャラクターにのみ柴門的な要素があって、あまりマンガである必然性を感じない。これだったら、たしかに小説でも書けるだろうし、逆に言えば、だからこそドラマ化しても成功したのかも知れない。
彼女の影響かどうかはさておいて(むしろ時代の流れだろうけれど)、この頃を境にして、少女マンガの主流もまた、翻訳困難なガラス細工から、もう少し骨太な、映像にも翻訳しやすいものへと変わっていく(要検討)。前回、「少女マンガは時代が下るにつれて日本を舞台にする作品が増えていくから実写化もしやすくなる」と書いたのだけれど、もうひとつ、時代が下るにつれて表現形式(の主流)が映像に翻訳しやすいものへと変わった…というのも、近年、少女マンガが映像化されている理由かも知れない。
つづく