「スパルタカス」(ある48ファンの残酷性について)
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アイドルが人を惹きつける要素として、3つのものがある。A.宗教的、B.市場的、C.人間的というのがそれだ。Aは理想に対する「忠実さ」によって、Bは何らかの「売り」によって、Cは人との「コミュニケーション」によって、それぞれ人を惹きつける。
ぼく自身はもともとAの要素をアイドルに求めるけれど、倫理がないがしろにされる48では、その要素は失われている。48にそれを求めるのはもう無理だろう。結局のところ、本物の宗教とは異なり、彼女たちは人生すべてをここに賭けているわけじゃないから、いくら「自分を律しろ」と言っても限度がある。
ぼくのように接触イベントに参加もせず、SNSにもコメントしない人間にとっては、Cの要素である人間的繋がりも意味を持たない。したがって、今のぼくにとってはBの市場的要素こそが、現在もっとも大きな部分を占めている。
今のぼくと同じように、Bが大きな部分を占めているファンを、ここでは仮に「野次馬ファン」と呼ぼう。これに対してAが大きな部分を占めているファンは、「信者」と呼ぶことができる。Cについては、メンバーごとに固有の名称が存在したりする。たとえば「(くまの)森の住人」など。
Aでは「正しさ」や「清らかさ」、Cでは「優しさ」や「暖かさ」が重要であるのに対し、功利主義者である野次馬ファンにとっての唯一の判断基準は、それが彼らにとって「面白いかどうか」だけだ。ところが、今の48は面白くない(後述)
結果的に、握手会などの接触イベントやSNSによるCの人間的繋がりのみが、ほぼ唯一ファンを繋ぎ止めている。ただ、人間的繋がりはファンを維持するためには有効だけれど、コミュニケーションには物理的限度がある。基本的には、Bで引っかかりを作って、Cで維持するという流れにならないとファンは増加していかない(Aはそれらにブーストをかける)
48全体の売り上げが縮小している理由は色々と考えられるけれど、ぼくはこのAとBの要素が吹っ飛んだことによる自然減だと見る。運営はこれらの穴埋めをするために、Cの要素により依存するようになっていて、握手会の日程は増加の一途をたどっている。そして、そのことがさらに様々な歪みを生んでいる。
どんどん規模が縮小し、Cにのみ依存していく48にとっては、いかにBの要素を取り戻すかが鍵を握っている。そこで、この記事では、他の要素をあえて切り捨て、Bの目線でのみ見た場合に、いまの48がどう見えるかを語る。そこではまた、野次馬ファンのある種の残酷さも明らかになるだろう。
(以下では、「彼ら」という言葉を使うけれど、その内には、ぼく自身も含まれるということは言明しておく)
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参考になるのは、ローマの剣闘士だ。と言うと、いきなり話が明後日の方向に飛ぶようだけれど、一応、ちゃんと理由はある。
まずこれは、当初、宗教性(A)を備えていたけれど、それが失われて単なる娯楽へと堕した。そして、彼らの多くは奴隷だったり犯罪者だったわけで、観衆であるローマ市民からは人間扱いされていなかった。したがって、人間的繋がり(C)も持っていなかった。
つまり、闘技場の観衆は、純粋に野次馬(B)の目線で剣闘士を見ていた(あるいはそういうことにしておこう)
闘技場で繰り広げられる命懸けの戦い。 「剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか木剣拝受者となって引退したと推定され、1世紀頃の事情では生き残りうる確率は20人に1人程度であった」(wiki)
勝者の栄光と敗者の絶望。そのコントラスト。昨日の勝者も油断をすれば、明日には奈落の底へと突き落とされる。勝者はより大きな栄光を掴まなければならないし、敗者はより惨めでなければならない。それが面白くて、観衆は熱狂する。
残酷なことを言っているようだけれど、こうした残酷性は、別に古代ローマに限らず、現代にも息づいている。たとえば、ワイドショー。あれはなんで、毎日ああもくだらない三面記事ばかりを追いかけているのだろう。それが社会にとって重要だからか?
違うね。あれは、見ている人にとって、自分とは関係ない人の不幸が面白いと感じられるからだ。深刻ぶって取り上げられているけれど、あんなのは報道の皮をかぶった、ただの娯楽に過ぎない。
もちろん、これが親しい人や身内だったりすると、もうそんな目では見られなくなる。「他人の不幸は蜜の味」とは、よく言ったものだ。人間は良心を持っている(じゃないと社会が成立しない)けれど、同時にそうした残酷性も持ち合わせている。
話を48に戻せば、野次馬ファンというのは、こうした「好奇の視線」でアイドルを見る人々で構成されている。これがC層に移行すると、アイドルとは擬似的に「身内感覚」になるから、その視線はもう失われてしまう。したがって、極論の形ではあれ、野次馬目線で書くことは、それなりに意味がある。
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野次馬目線で48を見ると、どうなるか。たとえば、総選挙について。
これを面白く思えるのは、勝者の栄光と敗者のコントラストがハッキリしているからだ。勝者は壇上に呼ばれスピーチをして、敗者は名前も呼ばれない。そのコントラスト。残酷かも知れない――実際、「残酷ショー」と言われることもある――けれど、そこが野次馬ファンから見て、もっとも面白いところになる。
この観点からのみ言えば、そのコントラストをよりくっきりさせることが、より野次馬を惹きつけ、熱狂させることになる。たとえば、総選挙でその先一年の選抜をすべて決めちゃう。推されも干されも選挙次第。加入3年目以降に圏外になった子は、即クビ! 勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う(要は『カイジ』理論)
まあ、こういう話に現実味がないのはたしかなのだけれど、少なくとも野次馬目線ではこういうことが言えてしまう、ということは頭に入れて置いて良い。今の運営がやっていることは、これとはまるで正反対で。色んなことに気を配り過ぎていて、勝っても負けても大して影響がない。だから、つまらない。
辞退メンバーに関しても同じことは言えて。たしかに色々と理由はあるだろうし、人間的繋がりを持っているCのファン層だったら、それを理解するかも知れない。でも、娯楽性でのみ判断する闘技場の観衆=野次馬ならば、「そんなの知らねーよ! つまんねーよ!」と言うだろう。「四の五の言ってねーで出てこいよ」と。
色々と理由はあったにせよ、闘技場で命懸けの戦いが行われているのに、その傍らで場内の安全地帯に逃げ込む剣闘士がいるのならば、熱狂的な観衆も白けてしまう(これは「場内の」というのがミソであって、自由を求めて場外に遁走してしまうならばもう目に入らない。場内の安全地帯だから目に入ってしまう)
その剣闘士にとっては「大切なものは別にある」としても、闘技場の観衆にとっては、目の前のものが面白いかどうかが全てであって、それ以外のことなんか知ったこっちゃない。彼らが望むのは、戦う気を失った剣闘士が引き摺り出され、無惨に負ける姿であって、安全地帯に逃げ込む姿じゃない。
もちろん、ここで剣闘士だけを批判するのはお門違いで。命懸けで戦うだけの価値があるニンジンをぶら下げられない主催者(運営)にも責任はある。
4.
悪名高きスキャンダルについても少し。これは、A(宗教的)の観点から見れば、アイドルの倫理から外れているから、「正しくない」と判断される。相次ぐスキャンダルによって、Aのファン層はもう壊滅状態に近いのじゃないのかな…。
ただ、忘れがちなのが、Bのファン層=野次馬にとって、どういう意味を持つのか、ということ。じつは、野次馬にとっては、スキャンダル自体は「面白い」ものでありえる。じゃなければ、そもそもあんな毎日くだらん芸能ニュースばかり流れやしない。
でも、いまの48のスキャンダルは面白くない。それは、あまりにも頻繁に起こるから陳腐化してしまった。当たり前すぎて、もはやスキャンダルですらない。なにより、スルーというのは、Bの観点からしても最悪の悪手。
涙の謝罪会見をして、それを野次馬がしたり顔で(TVに向かって)説教するところまでがワンセットで、あれも一種の残酷ショーなんだ。スルーが当たり前になったら、さしもの野次馬も白けてしまうしかない。こうして、B層も吹っ飛んで行った。
ただ優しいだけの世界とか、「つまらない」だろ?
まあ…あえて書く必要はないと思うけれど、(こういう目線があるのは確かだとしても)ぼくもこういう目線だけで見ているわけじゃない。それは、どうしてこの記事にこういうタイトルをつけたかを考えれば分かるだろう。