「『ちはやふる』が切り拓く邦画の地平」
かつて魔術的な道具だった「芸術」(それは神や仏と対話するためのものだった)、それは次に「鑑賞」の対象となり、やがてその役目を終えると「現代芸術」として体験型のインスタレーションへと変貌を遂げた。現代芸術の展覧会は、あたかもテーマパークのような様相を呈する。
原初(19世紀末〜20世紀初頭)、映画はアトラクションであった。リュミエール兄弟の『列車の到着』にまつわる伝説的なエピソード(観客がパニックに陥った)から分かるように、そうした映画は、あたかも「外に向かって手を伸ばす」(トム・ガニング)。観客は物語や人物の心境にのめり込むのではなく、向こうから訪れるものと遭遇した。
その後、物語映画による長い支配が続いた。あらゆる物語は汲み尽くされていった。やがて「映像の世紀」だった20世紀が終わり、そうして「魔法の世紀」(落合陽一)がやってきた。拡張現実(AR)に代表されるように、「イメージの中で起きていた出来事が、物質世界に踏み出して行く」時代。
そうしていま再び、映画は体感型のアトラクションになった。人は、『アバター』や『ゼログラビティ』のような3D映画によって異世界や宇宙空間に浸され、『マッドマックス』や『ガールズパンツァー』の爆音上映によってライドし、『アナ雪』ではともに歌い、『ラブライブ』や『キンプリ』でライブを体験する。映画は物質世界へと踏み出し観客と手を結ぶようになった。
だけど、邦画はいったいどこへ行った? ここに挙げた中に、実写の邦画はひとつもない。それはいまだ、映像の中に…物語の中に…閉じこもったままだ。予算やCG技術ではハリウッドには到底およばないから、当然、『アバター』や『ゼログラビティ』、『マッドマックス』のような映画は作れない。
それに、生身の人間はウソをつくから、一体感という点でアニメのキャラクターには及ばない(虚構の世界にウソは存在しない。あるいは、生身の人間はその場にしか存在できない=映像では複製になるのに対し、あらゆる映画館に出現するアニメ・キャラクターはそのすべてがオリジナルの存在であると言っても良い)
かつて、時代の先端を切り拓いていた筈の姿は、もはや見る影もない。自らの文法に縛られ、ノウハウに縛られ、そうして邦画は鼓動を失った。興行成績の上位に並ぶのは、タレントや原作のネームバリューに頼ったものばかり。まるで工業製品のようにデザインされ量産される。物語はいつしか、泣かせスイッチを押すためのものに成り果てた。
そこに、『ちはやふる』がやってきた。ハイキーの映像、軽やかな演出、耳心地の良い音楽。平田オリザのワークショップによる自然な発話。すべてが、すべてがすべてが滑らかに流れていく。その心地よさ。僕は映像のリズムを体感する、音を体感する。そうして、僕は色彩に浸される。
この映画は、まるでポップ音楽のように…あるいはトランス音楽のように(思えば音楽もいつしか、心地よさを追求するようになった)物語よりも心地のよさを優先する。心地良さだけを追求する映画、それで良いんだ。
これからの邦画はきっと、こういうものになっていく。