櫻の園徒然2(1990版) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


2.1990年の櫻の園

 中原俊監督の『櫻の園』(1990)は、吉田秋生さんの『櫻の園』を原作として、チェーホフの『櫻の園』を上演するお嬢様学校の1日を描いている。

 基本的な設定は共通しているけれど、原作との違いは色々とある。まず、原作はそれぞれ中野敦子/杉山紀子/倉田知世子/志水由布子を各話主人公としたオムニバス形式になっており、描かれる時間も場所もバラバラだ。

 一方、映画は各話のエッセンスを1日の出来事にまとめており、その一日の中で、同時に複数の物語が走るようにしてある。また、場所も校内に限定されている。結果として、この映画はどこか演劇作品のような印象になっている(その意味では『桐島~』に近い)

 ただ、ここにはある種の必然性がある。原作の作り自体は演劇的ではないけれど、演劇部という設定、『櫻の園』というタイトルは演劇を連想させるからだ(これは脚本を手がけたじんのひろあきさんのアイデアかも知れない。じんの版『櫻の園』は、その後に何度も舞台として上演されている)

 それから、登場人物の扱いや関係性も原作とは異なっている。もっとも大きな違いは、原作には登場しない(たぶん)城丸香織が、登場人物間を駆け回る舞台監督=リンク役としてメインを担っていること。その一方で、原作第一話の主人公、中野敦子は脇役的な扱いになっている。

 こういう「改変」は失敗するのが常…なのだけれど、これは奇跡的にうまくいっていると思う。第一に、オムニバスが元になっているこの映画には物語上の中心点が存在しないわけだけれど、リンク役の城丸をメインに据えることで、観客の視線を上手く散らばせながらも引き付けられている。

 第二に、中野敦子のエピソードを背景に押しやったことで、作品世界に重層的な厚みが生まれている。原作ではまるまる1話を費やしたエピソードが、この映画では、普通に見ているだけだったら気にも留めないような何気ない会話シーンとして、ちらっと出てくるだけだ。だけど、まさにそのことによって、この映画の外に広がり/厚みが生まれている。ちゃんと世界が「作られている」という感じがする。

 この「作られている」ということ=構造が大事なんだとボクは思う。吉田秋生さんの素晴らしいところは、まさにその構造だと思うからだ。『海街diary』でそれぞれの登場人物を描いていってひとつの街を作ったように、『櫻の園』ではひとつの校舎を作っている。そして、海街に海風が吹いているように、ここには桜が薫っている。この「構造的なもの」+(海風や桜のような)「情感的なもの」というのが、2つの吉田作品に共通している。

 中原版『櫻の園』(1990)も、その点において通じるものがある。構造的に作られていて(ちなみに文庫版『櫻の園』に寄せた中原さんの解説文も構造的な分析になっている)、そこに桜が咲いている。そして、その桜は去り行くものへの愛惜を感じさせる。チェーホフ版と吉田版と中原版では、それぞれ「桜」が示唆するものは別だけれどね(単純に言うとチェーホフ版は栄枯盛衰、吉田版は青春、中原版はその中間って感じかな)

 是枝監督の『海街』が「情感的なもの」のみに流れてしまっている(=雰囲気映画になってしまった)のに対し、ストーリーもキャラクターも改変している中原版『櫻の園』が、それでもなお原作と通じるものを感じさせるのは、そうした部分において通底しているからではなかろうか。

 …と、1990年版を絶賛したわけだけれど…中原版『櫻の園』にはもうひとつ、2008年版というのがある…。

つづく