ディア/モノローグについて(僕街) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「ディア/モノローグについて(僕街)」

1.
 今期のノイタミナアニメ、『僕だけがいない街』(僕街)の第1話を見ました。

 正直、僕は期待していたんです…と、書くと何を言いたいか分かってしまいそうですが。原作が好きなんですよね。本格的サスペンス+タイムリープものという内容もさることながら、何より「僕だけがいない街」ってタイトルが良いじゃないですか。

 ただ、キャストを聞いた時に、少し・・・いや、かな~りイヤな予感がしたんですよね。満島くんと土屋太鳳ちゃんという、現在売り出し中の若手俳優をキャスティング・・・一般受け狙いの姿勢が見え見えで、実際に彼らがどうかは別としても、そうした姿勢自体が僕をゲンナリさせました。

 (実際に第1話を見た感想では、満島くんはまあまあでしたが、土屋太鳳ちゃんは「クッ○ヘタク○!」でしたな←土屋太鳳ちゃんに厳しい人)

 ただ、第1話を見て本当に気になったのはもっと別のこと(一部は関わっているんですが)・・・演出の問題です。『僕街』は割と語りの多い作品・・・だということに気付かされたんですが、その語りの「間」がもっていない気がするんですな。単純に言って退屈なんです。

 今作の監督(伊藤智彦監督)は比較的若い監督さんですが、『S.A.O.』や『銀の匙』の監督も務めているので、それなりに能力がある人だと思っていたんです。もしかすると、『S.A.O.』はアクションシーンが多い作品だったので、こういう語りの「間」は意識しないで済んだのかも知れません。ただ、今回は・・・正直ハマってませんな。

2.
 ディアローグ(対話)であれ、モノローグ(独白)であれ、語りの「間」をもたせるために、他の監督はどのような手法を用いているでしょうか。

 たとえば『パトレイバー2』(押井守監督)では、後藤隊長と荒川の間で非常に長い対話が交わされます。そして、この場面において、映像的には2人が乗る船上からの景色が映されるのです(意図的に会話のロケーションをそこに設定しているのだと思いますが)。

 川沿いのコンビナート、(劇中で破壊され)再建途中のレインボーブリッジ、鳥が止まっている浮標式、上空を行くジャンボジェット(このカットはちょっと『ガンバ』=出崎さんっぽい)、沖を行く貨物船、廃墟となった工場・・・。

 こうしたものが淡々と流れていくだけですし、大抵、数枚に分けられた背景画を引っ張るだけで画面が作られている(つまり作画じゃない)のですが、これ、ずっと見ていられるんですよね。そうして映されたものはまた会話内容にも響いていて、この場面は、この映画の中でも印象的な場面のひとつになっています。

 これと近い印象があるのが、新海誠監督の諸作品です。彼の作品では、ディアローグよりもむしろモノローグが作品の中心を担っています。そして、そのモノローグが語られる際に用いられるのが、写真をもとに作られたカットです。

 上記の『パトレイバー』とは(ディアローグとモノローグという違いの他にも)2つの点において、これは異なっています。ひとつは『パトレイバー』では(ゆるやかにせよ)動きが表現されていたのに対し、新海作品では静止画がポンポンっと映されていくこと。またひとつは、前者が(一応)対話が交わされているその場が映されているのに対し、後者ではほとんどその場とは関係ない場が映される(こともある)ことです。

 新海作品のそうした映像は、内語であるところのモノローグに相応しく、語り手の心象風景というか、そんな印象があるんですよね。その結びつきもまた、語りの内容というよりはむしろ、語りのムードとか情緒とか、そうしたものと結び付いているでしょう。詩写真とか、ああしたものに近い。いずれにせよ、これもまたずっと見ていられます。

 また別の例を挙げることも出来るでしょう。上記の例はアニメ映画の例なので、テレビアニメとはまた別だと考えられるかも知れません。しかし、それはおそらく無関係なのです。

 TVアニメ『物語シリーズ』(新房昭之監督)の例ではどうでしょうか。『化物語』の第3話に阿良々木くんと戦場ヶ原さんの長~い会話シーンがあります。ここでは、物語シリーズお得意の無駄にフェティッシュ(褒め言葉)な絵に加え、時に2人が遊具で遊ぶコミカルな動きを見せ、時に阿良々木くんのデフォルメ顔を出し、時にイメージ映像や図を映し、そうして独特なリズムを構成しつつ、「間」をもたせています。

 『物語シリーズ』の場合は、もとがラノベということもあり、会話自体で聞かせることも出来たかも知れません。しかしそれにも関わらず、そうした様々な手法が用いられるということは、語りの場面において、いかに「間」をもたせることが難しいか、ということを物語っています(物語だけに!)。

 ・・・と、書いてきて、この文章自体の「間」がもっとらんのじゃないか・・・って気がしてきたんですが、それは・・・まあそれとして←

3.
 いずれにせよ、これらの例に共通することは、たとえ音を消したとしても、映像だけでずっと見ていられるような画面を作っているということです。それに対して、『僕街』ではそうした工夫がほとんど見られないんですよね。この記事の最後に掲載したPVを見る限りでは、やっているように見えるんですが、実際には全然足らんです。

 2人で話している時に、その話している2人を映すだけでは、それは単に「2人で話しています」という説明的記号にしかなりません。そんなものはすでに、それまでの展開と、その場の音声で伝わっている筈なので、余分な情報にしかならんですよ。だから退屈してしまう。

(これと同じことは、ノイタミナの前期アニメ『すべてがFになる』にも感じたことです。一方、同じノイタミナでも、『冴えカノ』では違いました。喫茶店での加藤との会話シーンにおいて、存在感が薄すぎて見切れる加藤というカメラワークが興味を引いたのです。あれは僕が『冴えカノ』にハマったきっかけとなるシーンでした)

 この作品『僕街』はマンガ原作ですが、マンガの場合は良いんですよ。自分のペースで読めるんですから。自分でどんどんリズムを上げていくことも出来ますし、ふっと気を抜くことも出来ます。あるいはそれは小説でも同じことでしょう。でも、アニメはそうじゃないですよね。時間が定まっていて、(鑑賞者に対しての)ある種の強制力/拘束力が働くので、「間」の問題が前景化してくるわけです。

 同じ時間芸術でも、実写映像の場合、バルトが「プンクトゥム」(わたしを突き刺す細部)と言ったように、撮影者すら意図しないものが映り込んでくるので、それだけである種「間」がもつということがあります(まあ退屈なものは退屈ですし、逆に言うと、放って置いてもある程度「間」がもってしまうので、制作者の中にそうした意識が芽生え辛いと言えるのかも知れんですが)

 それに対して、アニメってのは当然、描いていないものは映らないので、実写よりも一層、「間」をどうもたせるが問題になってきます。

 その点、『僕街』は工夫が足りないように思えるんですよね。(原作があるので)ロケーションを動かすことが出来ないなら、たとえばテーブル上のコップとか、キッチンの明滅している蛍光灯とか、そうしたものを映せば良いんであって。そうした、「2人が話しています」という記号に回収され得ないものを描かないと、なんらかの手段で目を楽しませる工夫がないと、アニメの場合は、「間」がもたんと思うのですよ。