スター・ウォーズ/フォースの覚醒
STAR WARS:THE FORCE AWAKENS
2015年アメリカ、136分
監督:J・J・エイブラムス
主演:ハリソン・フォード
感想(予告編で分かること以上のことはネタバレしません)
1.「スター・ウォーズ」
僕はスター・ウォーズ(以下S.W.)世代とは少し違うのだけれど、それでもやっぱり、子供の頃はどハマりした。録画したビデオは何回見たか分からないし、「その後」を描いた小説も片っ端から読んだ(ティモシイ・ザーンのものがお気に入りだった)。
S.W.展で買ったポストカードは長いこと枕元に貼ってあった。ミレニアム・ファルコンの模型は高嶺の花だった。ゲームはもちろんやったし、メガCDは『レベルアサルト』専用機みたいなもんだった。
ハンも魅力的だったけれど、僕はやはりルークだった・・・と言うより、僕がルークだった。フォースを操り、ライトセーバーを自在に使いこなす「イメージトレーニング」・・・あの頃、僕は立派な少年ジェダイだった。
新シリーズ(エピソード1~3)には、さほどハマらなかった。CGにしたことで、(当時のCGの水準もあって)あの模型の現物感が損なわれていたし、ストーリー的にも甘っちょろかった。なにより、ヘイデン=アナキンは魅力的じゃなかった。
僕にとって、「スター・ウォーズ」とは、やっぱり旧シリーズだった。今度の映画化はエピソード7から・・・つまり旧シリーズの続編だ。30年ぶりにあの続きが見られる。しかも、監督は『スタートレック』再起動に成功したあのJ.J.エイブラムスだ。
2.再起動失敗?
冒頭、黒地に黄色く縁取られた文字。奥に滑っていく文章。そして、例の音楽、ジャーン!・・・タララララ・・・チャチャチャーン、チャーン、チャチャチャーンチャン、チャチャチャーン、チャーン、タラララーン♪ これで一気にS.W.の世界に引き込まれる。ジョン・ウィリアムズすげえ…。
何度も見たタイトルロール、何度も聞いた音楽。それでも、劇場でしかも新作で見るというのは、やはり格別なものがある。「ああ、これから本当にあの物語の続きが見られるんだ・・・」と、実感する。途端にテンションが上がる。
でも、結果から言ってしまえば、このオープニングがこの映画でもっともテンションが上がった箇所だった。う~ん・・・。脚本家の伊藤和典さん(『クリィミーマミ』『パトレイバー』『攻殻機動隊』「平成ガメラシリーズ」など)が次のように言っていたけれど、僕もおおかた同意。
『スターウォーズ EP:VII』観た。開幕10分でラストカットが予想できたり、またそっち行くんかい、とエセ関西弁でつっこみたくなったりとかありつつ、同窓会映画としてはOKな感じで、帰りはわりとテンション高かった。でも、脚本、頑張れ。その話いらんだろ、とか。ちょい複雑……
なんかね~・・・旧シリーズにあったようなシンプルな力強さが感じられないんだよな・・・。色んなところに配慮した結果、作品としてひとつのまとまりをつけられていないように思う。
3.「政治的正しさ」と物語の力強さ
これはセンシティブな話題になるけれど、たとえばキャスティング。これはこれでありだと思うし、良い演技をしていたと思うけれど、女性と黒人がメインキャストってのは、どこか「政治的な正しさ」への配慮を感じさせる。配給元がディズニーだけにとくにね。
(注:僕はここでキャスティングを批判しているわけじゃありません)
アメリカって国は、そうしたことにきわめて敏感であって、たとえば「スタートレック」のTVシリーズでも、主人公が白人→黒人→女性と移ってきている。そして、もちろん、そうした「政治的正しさ」というのが、作品の質に直結する場合もある。たとえば『42』なんかはまさにそういう映画だった。あれは、政治的に正しいことを訴えているからこそ、物語にも力強さが生まれるという好例だ。
でも、政治的に正しい作品がいつも作品として優れているわけじゃない。端的に言って「政治的正しさ」と「作品の質」はイコールじゃない。女性と男性とで交互に主役を選ぶようにした「大河」は政治的には正しいかも知れないけれど、果たしてそれで作品の質が上がったか? 少なくとも、視聴率上はそうはなっていない。
逆に、古典的名作…たとえば『イリアス』なんかは現代的な意味での正しさとは無関係だし、『蝶々夫人』なんかも「差別的だ」という批判が再三なされてきた。日本では手塚作品なんかもそうかな。それでも、それらが優れた作品であることに違いはないし、それらの持つ物語の力強さは、政治的正しさとは別のところにある。
そして、S.W.旧シリーズはむしろ、こうした後者の例にこそ当てはまる作品だった。だって、宇宙の片田舎で悶々としている若者と、アウトローのならず者が、悪の帝国からお姫様を助ける話だよ? そんなもん、政治的正しさとかそういう次元の話じゃないじゃない。
もちろん、銀河帝国には、絶対悪としてのナチスが反映されているわけだけれど、それに対する正義としてのアメリカという構図は、もうあのベトナム戦争後の時代には有効性を失っていた。それを忘れるためのナチスへの言及だと捉えるならば、むしろS.W.には政治的正しさはない。それでも、S.W.には物語の力強さがあった。
(追記:それに、帝国=ナチスという構図からすると、今回のキャスティングは、帝国=ナチスの人種的寛容さを現わしてしまうことになるから、むしろ意味が分からんことになる。「ファースト・オーダー」は帝国とはその辺の考え方がまた別なのかも知れんけれど)
また、ルーカスがS.W.にジョゼフ・キャンベルの神話論を取り入れたという話はわりと知られている。古典的な神話、あるいは西部劇や黒澤映画(とりわけ『隠し砦の三悪人』)を単にスペースオペラに仕立て直しただけじゃないかって批判もなされてきた。
でも、だからこそ、S.W.には物語としての力強さがあった。古典的だけれど、だからこそ普遍的な物語が持つ力があった(その点は中国史劇なんかをスペースオペラに仕立てた『銀英伝』と同じ)。
4.若さゆえ
S.W.にはまた、若さが持つ力があった。『アメリカン・グラフィティ』(1973)でアメリカの若者を描いたルーカスは、S.W.制作当時でもまだ30代前半だった。その若さは、あの物語にもダイレクトに反映されているし、劇中で「Young Skywalker」と呼ばれるルークにはその部分が特に現れている。
夢と希望に燃える若鷲は、広大な世界に想いを馳せ、いつか遠くの空へと羽ばたくことを夢見る。ルークがタトゥーインで2つの太陽を眺めるシーンは、そうした若者の心性を良く現わした名シーンだ。
ルークってのは、哀愁を帯びたキャラクターでもあって、お姫様を救った騎士なのに、年上のならず者に彼女を持って行かれてしまう。もちろん、「じつは妹でした」というエクスキューズが用意されてはいるのだけれど、そこには人生経験に欠けた若者特有の悲哀がある。
S.W.はまた、父を巡る物語でもあって、不在の実父[アナキン]への憧れと、土地に縛り付けようとする叔父[オーウェン]への反発、師父[オビ=ワン]への傾倒と、その死。そこから実父への対決~和解へと至る道は、そのままルークと父たちの物語として読むことができる。
そうした若さはまた、あの映像表現にも反映していた筈で。当時流行の(ピカピカに反射する表面、ネオンライトで特徴づけられる)「Candy Neon Apple」の外見と、「New Hollywood」(アメリカン・ニューシネマ)で用いられたザラついた画面作りの結びつきが、S.W.(したがってその後のあらゆるSF映画)の根底を成している*。
(*参照:Julie Turnock, "The ILM Version: Recent Digital Effects and the Aesthetics of 1970s Cinematography")
人類がこれまで培ってきた普遍的な物語を、当時最新のああいう映像で見せたという、そこにこそS.W.の良さがあった。それはシンプルだけれど、強固な構造だ。
5.エピソード7
翻って、この2015年J.J.=ディズニー版(と呼びたい)の『エピソード7』は、そうしたシンプルで力強い構造がまるで見られない。色んなところに気を配った結果、芯の強さが見失われてしまったような印象がある。
伊藤さんが「同窓会映画」と評していたけれど、まさにそんな感じ。予告で映っていたから言っても良いと思うけれど、ハンやチューイも出てくるし、懐かしのXウイングやスター・デストロイヤーも登場する。紛れもないS.W.世界の筈…なのだけれど…。
ただ、かつてのS.W.にはあった何かが決定的に欠けている。あのシンプルさゆえの力強さ、若さゆえの輝き…なにかそのようなもの。新たに出てくる敵も小物感があるし、背後にそびえる宇宙の広大さも感じない。複雑に入り組んだストーリーに入り込めないから、ついつい余計なことを考えてしまう。
旧シリーズでも、たしかに設定的に引っかかるところはあった。たとえば、デス・スター。なんでコアへのルートが遮蔽されとらんのだと。あんなもん、網目状のフェンスでも張っておけば防げるでしょうに。ただ、映像の説得力と物語の力強さがあるから、そこはそういうもんだと納得させられちゃう。
この『エピソード7』には、その部分…物語の力強さがないから、そうした設定上の弱点がモロに露呈しているし、気になってもしまう。「そこはそれで良いの?」と思えてしまうシーンがいくつもあった。そもそも、旧シリーズであれほど重要だった「成長」という概念は、いったいどうなっとるんだこの世界は。僕がキャスティングに政治的正しさへの配慮を感じてしまったのも、結局のところ、物語に力強さが感じられなかったせいじゃなかろうか。
J.J.にはたしかに画作りの才能がある。予告編でも映っていた砂漠にスターデストロイヤーが埋まっているシーンなんかは、とてもポエティックだし素晴らしいと思う。でも、逆に言うと映像に引っ張られ過ぎる。『イントゥ・ダークネス』でもそれはすでに明らかだった。そこが線引き出来ないなら、彼は脚本に関わるべきじゃない。
(追記:もちろん、宮崎駿のようにイメージから物語を紡いでいく人も居て、それが決して悪いわけじゃない。でも、J.J.の場合は、基本は文章的なのに、映像に引っ張られるから、中途半端な印象がある。映像に引っ張られている部分が余計な部分に見えてしまう)
もうひとつ思ったのは、彼はやはり、基本的に「地上の人」だということ。興味があるのが、地上のあれこれなんだよね。『スタートレック』は宇宙航海の話で、各地(各星)への寄港がメインになるから、それでも出来ちゃうのだけれど、S.W.ってのは、思いっ切りスペースオペラだから難しい。その辺の噛み合わせの悪さも感じた。
僕はこれ、はっきりと失敗作だと思う。30年もあったのに、いったい何をしてたのよ。
(追記:『マッドマックス』―おそらく今年度のベスト映画―が、ジョージ・ミラー本人によってああいう吹っ切れた再起動を果たしたのに、なぜ『スターウォーズ』がこうなったか。やはり生みの親[ルーカス]の不在と配給元の移動[FOX→ディズニー]という要素は大きいと思う。そして、そのことによって、「過去」との距離の取り方が却って難しくなったのかも知れない)
☆☆☆☆(4.0)
物語3.0
配役4.0
演出4.0
映像4.5
音楽5.0