「浮き草2」(羽海野チカ的なもの)
前回も書いたように、羽海野チカ作品(とくに僕が感じる違和感)について考えているので、「BSマンガ夜話」の『ハチクロ』回を見てみました。そこで言われていたのが、「70年代の青春漫画」という話でした。アイデアの出し方が一緒なんだと。
それを聞いてふと、「あ・・・『エースをねらえ!』なんだな」って。番組で直接に名前が挙がっていたわけじゃないのですが、羽海野作品は『エースをねらえ!』なんだと考えると、僕はしっくりくるんです。
で、ググってみたところ、公式ブログにこんな発言が↓
初めての自分の単行本のお金が入った時に一番最初にそのお金で買ったのは「エースをねらえ!」の文庫版でした。実家に置いて来てしまったので、あちこち巻が抜けてしまっていたので絶対一番最初にもう一度「エースをねらえ!」を買おうと決めていたのです「エースをねらえ!」や「七つの黄金郷」や山岸涼子先生の「アラベスク」萩尾先生の「11人いる!」「ト-マの心臓」は子供の頃、近所のお姉さんに貸してもらって何度も読みました。
「あ…やっぱり」と。
『エースをねらえ!』って、要は、才能溢れる主人公が「辛くても頑張る」という話じゃないですか。羽海野作品の根本もそうなんじゃないかって思うんです。たしかに現代的な絵柄ですし、舞台も美大だったり、将棋の奨励会という現実のものです。日常描写の繊細さもありますし、一見、あたかも現代の日常を描いたドラマにみえます。でも、実際のところ、その中身については70年代的な「スポ根マンガ」のリアリティになっているんですよね。
それはつまり古典的(あるいは普遍的)ということでもあって、別にそれ自体は悪いことではないと思うのです。70年代と今とでは受ける絵柄も違います。こういう装いにすることで、気軽に古典的な物語に触れることが出来る…というのはひとつの長所でしょう。実際、「BSマンガ夜話」でも、「こういう物語が今でも受けるということが驚き」だと述べられていました。
ただ、僕が感じた違和感の原因もまた、そこにあるのだろうなと。一見、日常的なドラマに見えるので、そうした観点から読み解こうとすると、たとえば主人公の才能や、ポジション取りなどに引っかかって、この物語のどこにも自分を託せる人が居ないと(僕は)思うんです。それは、日常的なリアリティの水準で判断して、現実の問題がここに描かれているんだと考えるからですよね。
でも、『エースをねらえ!』なんだったら、僕は、「ああ別にそういうもんだろうな」って、そう思うだけです。なぜなら、それはもとよりファンタジー*なんですから。別にそれが良いとか悪いとかじゃなく、別物だという話です。だから、そもそも僕は読み方を間違えていたわけですよ。
(*『エースをねらえ!』は高校が舞台になっていますが、たとえばお蝶夫人なんかはかなり非現実的なキャラクターですよね。背景の描写もどこか抽象的な描き方になっている。そのことによって読者は、これはファンタジー世界なんだと気付くわけです。『3月のライオン』でも二階堂くんなんかは少しそんな感じなのですが、日常描写の細かさによって、その辺の境界が曖昧にされていると思います)
大塚英志さんは「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉を使いましたが、羽海野チカ作品もまさにそういう風に作られているマンガだと思うのです。つまり、現実そのものではなく、マンガ…それも70年代の『エースをねらえ!』的な「スポ根」+萩尾望都的な「無垢なものへの愛着」を参照して作られているマンガです(それはパクリとは明らかに違います)。
だからこそ、夏目房之介さんも言っていたように登場人物が相手の吹き出しを読んで「文字化け」とか言えるわけですよね。言い換えれば、この世界全体がマンガ世界に乗っかっている世界ということでしょう(逆に言えば、だからこそ、姪御さんへのいじめがきっかけとなって描かれたというあの一連のエピソードが浮いて見えるのか知れません)。