「浮き草」(『3月のライオン』とか『桐島』とか) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
「浮き草」(『3月のライオン』とか『桐島』とか)
 
 羽海野チカさんの『3月のライオン』を読みました。
 
1.「こっち側」と「あっち側」
 大前提として、素晴らしい作品だと思います。物語的にも面白いし、ユーモアもある(陳腐な表現だな…)。心理描写の繊細さ、あるいは日常描写の解像度の高さも特筆すべきものです。ただ、思ったのは「こっち側」の話だなってこと。あるいは、少なくとも自分を「こっち側」として捉えている人の話だと言っても良いかも知れません。たしかに非常に解像度の高い作品ですが、カメラが向けられているのは、あくまでも「こっち側」だなって。
 
 「こっち側」とは何なのか…という話ですが。たとえば、『惡の華』も「こっち側」の話でしょう。『俺ガイル』(やはり俺の青春ラブコメはまちがっている)や『桐島』(桐島、部活やめるってよ)は、「こっち側」と「あっち側」の関わりの話ですよね。要は、スクールカーストとか教室の分断とか、そうした捉え方をした時に、自分が「こっち側」か「あっち側」かという話です。「ヲタ」とか「リア充」、あるいは「内省的」「外向的」という言葉が、(イコールではないものの)これの関連語になります。
 
 「こっち側」という言い方をしていると、僕自身、「こっち側」に属していると自覚しているように聞こえるかも知れませんが…そこが微妙なんですよね。たとえば元SKEの松井玲奈さんは「こっち側」に属していることを自覚していますし、そのことに意識的な人だと思うんです。でも、僕はそこまで割り切ることが出来ない。なんだか、僕はそのどっちにも所属していない気がするんです。
 
 「こっち側」を描いた作品では、主人公に居場所がないこと、そうして居場所を見つけることがテーマになるケースが多々あります。じつはそれ自体がひとつのポジション取り=居場所なのではないか…と、僕には見えてしまうのです。たとえば、『3月のライオン』は「こっち側の人」の漫画というよりも、(実際にそうだとしても)「自分がこっち側だと思っている人」の漫画だと思えてしまう…つまり、それ自体がポジション取りの問題に見えてしまう。僕にとっては、なにか一段、距離が感じられるということです。
 
2.分断
 この違和感はなんだろう…と考えた時に思い出したのが、アニメ監督新海誠さんとニッポン放送のアナウンサー吉田尚記さん(『3月のライオン』も受賞した「マンガ大賞」の発起人でもあり、玲奈ともラジオで長年共演)の発言です。彼らは、W杯の開催中に行われたある対談で次のように語っています。
 
新海:皆さん、サッカーを見ているんですかね。でも、僕のファンは見ていないと思うんですよ。
吉田:アニメファンは独立独歩の人が多いですからね。アニメのいいところって、モテるために見ている人はほぼ皆無なところだと思うんです。
新海:そうですね。何かから逃れるようにしてたどり着くのが、アニメなんだと思います。
新海:学生のころから、みんなが集まってご飯を食べているときでも、うまく輪に入れませんでした。体育の授業でも、チームにうまく溶け込めませんでした。
吉田:それは、アニメファンが抱える共通の体験でしょうね。
『アニメ談義2万字!』Vol.3
 
 この発言から感じられる違和感。この思想っていったいなんだろうな…って。世の中を「アニメファン」と「サッカーファン」とに分断して、「アニメ好きな人はこういう人」「サッカー好きな人はこういう人」と決めつけているような気がするんです。
 
 そんなわけないだろうと。たしかにそういう傾向はあったとしても、別にサッカーファンはそういうヤツばかりじゃないし、アニメファンもそういうヤツばかりじゃない筈で。僕はサッカー好きですが、同じサッカーファンの中にも受け容れがたいヤツはいますし、(初期)新海作品も好きです。
 
 彼らの発言は、かつて(今も?)「アニヲタ」がレッテル貼りをされ、差別視されてきたことへの、いわばカウンターと見ることも出来るでしょうが、これじゃあ結局、その構図を反転させているだけのような気がします。たとえるならば、かつて虐げられてきた被支配者層が革命を起こし、今度はかつての支配者層を虐げる…といったような虚しさを覚えます。それは無意味なのじゃないか…と。
 
3.桐島
 『3月のライオン』で気になるのは、完全に理解できない存在として描かれている高城さんや川本父もさることながら、なにより野球部の高橋くんの描かれ方です。
 
 イケメンで背が高くてスポーツマンでモテモテで、一見「あっち側」のキャラクターのように見えますが、「こっち側」の理解者として描かれているんですよね。実際、そういう人は居るでしょうし、そういうポジション取り自体は全然あり得ると思うのです。ただ、なんというか僕は、あの漫画の中で、彼の存在だけ解像度が低いように感じるんです。「こっち側」を肯定するための道具として出てきているように見えるんです。
 
 新海さん/吉田さんの発言は、サッカーファンとの差異化を図ることで、自分たちアニメファン(こっち側)の立ち位置を確立しようとしているように見えるのですが、『3月のライオン』での高橋くんの描き方は、「あっち側」のトップからの肯定を得ることで、「こっち側」の立ち位置を確保しているように(少なくとも僕には)見えます。
 
 (あるいは、そうした「こっち側に優しい世界」を描いている割に、高城さんのような「敵」を「あっち側」に拵えていることに、僕は違和感を覚えるのかも知れません。しかも勝つのはいつも「こっち側」という。別に優しくあることは構わないのですが、それが分断→戦い→勝利という経過を辿って達成されることへの違和感なのかも)
 
 その点で考えると、『桐島』のキャラクターの描かれ方の方が、僕は共感できるんですよね。特に映画版の方ですが。『3月のライオン』が「こっち側」の話だとすれば、『桐島』(あるいは『俺ガイル』)では、分断それ自体がテーマになっているように思えます。『桐島』の世界観は、『3月のライオン』よりずっとドライで(「こっち側」にも「あっち側」にも)優しくないんですよね。
 
 主人公のひとり菊池宏樹は高橋くんと同じように、野球部でイケメンで背が高くて、しかも何でもこなせてモテるという、完全に「あっち側」のキャラクターです。でも、どこか冷めています。部活もさぼっていますし、何に対しても熱くなれません。
 
 『桐島』の場合は少し「こっち側」と「あっち側」の関係がずらされているところがあって、野球部のキャプテンなんかはむしろ「こっち側」に近いんですよね。つまり、格好悪いくらい、なにかに夢中になっている存在として、「オタク」に近いわけです。菊池くんはそんな彼らに対して、どこか羨望に近いような感情を抱いています。なので、一瞬だけ映画部の前田涼也と心が触れ合う場面がある。でもやっぱり、「こっち側」に来ることも出来なくて…というあの寂寥感、あれに僕は共感を覚えるんです。
 
 僕自身、そうしたポジション取りの分からなさというのは、常に感じてきました。もともとサッカー部ですし、サッカーファンですが、そこに定住するわけでもなく。SKEファンでもありますが、そこにも居心地の悪さを感じ…。こうしてアニメに流れてきても、それで割り切れるわけでもない。どこかひとつのところに居場所を見いだして落ち着く、ということがないんですよね。まるで浮き草みたいなもんです。
 
 こうした作品を見たり、読んだりするたび、学生時代の自分を誰に喩えられるだろう…と、良く考えます。でも、誰にたとえてもしっくりと来ないんです。ただ、あるとき、たったひとりだけ、自分を擬すことができるキャラクターがいることに気付きました。
 
 僕は「桐島」なんです。端的に不在なんですな。
 
(菊池くんだけが僅かに桐島を理解できる存在なので、だから僕は菊池くんに共感を覚えるのかも知れません)
 
「浮き草2」