天空の蜂(3.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
天空の蜂 
 
2015年日本、139分
 
監督:堤幸彦
 
主演:江口洋介
 
概要
 人気作家・東野圭吾が原子力発電所を題材に1995年に発表した傑作小説を、堤幸彦監督が映画化した社会派サスペンス。最新鋭の大型ヘリを手に入れたテロリストが、日本全国の原発の停止を求め稼働中の原発上空でホバリングさせるテロ事件を描く。困難な直面に立ち向かうヘリコプター設計士を江口洋介、原子力機器の設計士を本木雅弘が演じ、初めての共演を果たす。東日本大震災による原発事故を経験した日本において、改めて社会と人間の在り方を問う衝撃作。(シネマトゥデイより)
 
感想
 『寄生獣』の実写版で、安易に毒物が放射性物質に変えられていたり、いまや、こういう設定が単なるファッションに過ぎなくなっている。誰でもお手軽に社会派を気取れるファッションにね。真に迫ったものはそこにはない。
 
 1995年に書かれた作品なのに、これも根っこのところではそれと同じ。ファッションに見えてしまう…ということが、いちばんの問題なのかな。1995年に書かれたのなら、ご時勢は関係ない筈なのに、別に「反原発」って単純な構図では描かれていない筈なのに、なぜだかファッションのように見えてしまう。
 
 『真夏の方程式』における、とってつけたような環境問題にも感じたこと。東野さんにとって、こうした社会派の状況設定って、つまるところ雰囲気作りやサスペンスの仕掛け、そしてキャラクターのピュア設定のためのものに過ぎないんだよね。
 
 たとえば、松本清張には「格差」ってテーマが根本にあって、それが彼の作品の底流にはずっと流れている。それは彼の作品と切り離せない。あるいは『ゴジラ』だって良い。あれも「水爆」とは切り離せない(初代『ゴジラ』は東京大空襲の記憶も引き摺っている。だから概念としての水爆と体験としての空襲がごっちゃになったもの、と言っても良いかもしれない)。
 
 でも、東野作品はそうじゃない。彼のテーマは「ピュア」であって、それは社会的テーマとは切り離せるんだ。この映画もまさにそう。(上述した理由以外には)別に原発である必然性がない。
 
 そして、それはまたしても(彼の他の多くの作品同様)、犯人の動機の弱さというところに結び付いている。
 
 これはネタバレになるから言わないけれど、劇中で描かれる「それ」がきっかけなのだったら…普通はそういう結論には至らない。明らかに論理が飛躍しているところがあって、その部分の説明はない。だから、その部分は結局、犯人個人の特殊性というところに落ち着いちゃって、だからこそ、これは社会派ではあり得ない。その理由が普遍的なものじゃないから(そこが松本清張とは決定的に異なる)。
 
 これで「社会と人間の在り方」どうのとか、それって単なる気分的な問題に過ぎないんじゃないかって気がする。中身が何もない…と言うより、そこに、この作品の本質はない。
 
 脚本家のセンスもなんだかな…(原作にあるか知らないけれど)とってつけたような安保関連の発言とか、3.12(ボクはこの表現を使う)を連想させる発言とか、なにか言葉が上っ面を滑っているような感じがする。
 
 とってつけたような「悪役」(≠犯人)も、あれもただ悪役であるための悪役だもんな…。犯人側にも同情的に描かれているから、一見、いかにも善悪は簡単に決められない、という風に見えるんだけれど、明らかに「悪役」として設定されている人物が別にいる(見れば分かる)から、なんだかバカバカしいんだ(田中芳樹作品と同じ構造)。犯人がちゃんと悪を背負っていない。
 
 ここには、クリストファー・ノーランやベネット・ミラー作品から感じられるような哲学は微塵も感じられない。
 
 役者陣の「熱演」も…とくに女性陣は酷い。それから、映像面でウリになっている筈の「天空の蜂」があまりにオーバーテクノロジーで、あの世界が現実の1995年の日本だって感じがしなかった。そのこともこの映画のファンタジー要素を強めている。
 
 社会派…?  
 
☆☆☆(3.0)
物語☆☆☆
配役☆☆★
演出☆☆★
映像☆☆☆★
音楽☆☆☆