「3つのもの:宗教的」(整理のために2)
ファンを惹きつける力には、大きく分けて3つの種類があると思う。ひとつはアイドル的、もうひとつはタレント的、そして最後のものは人間的だ。
1.
「アイドル的」というのは、その語源に相応しく宗教的なモデルを考えると分かりやすい。たとえば偶像のモデルになった聖人達のように、「神」のような何か、あるいは理想に仕えることで、その同じものを信奉する人々から崇拝を集める。2人のマリアや、ジャンヌ・ダルク、あるいは象徴的な存在としてのマリアンヌなんかが、このカテゴリーには含まれる。
この力は、人が何を信じ、何を理想と見なすかという(精神の)指向性の問題にかかわっている。彼女たちは同じものを信じる人々のみの間でアイドルたり得る。したがって、ここで重要視されているのは、その「何か」に対する忠実さになるだろう。
たとえば、ジャンヌ・ダルクは何よりフランスのアイドルなのであって、イギリスのアイドルではあり得ない。たとえば(あり得ないことだけれども)彼女が神とフランスに対する忠誠心を持っていなかったとしたら、どういう人物であったにせよアイドルにはなり得なかっただろう。
また、ローマ支配下におけるユダヤ人、あるいはキリスト教の迫害の歴史、百年戦争でのフランスの危機的状況、あるいは絶対王権下のフランス国民の境遇を思えば、これらのアイドルはまず何よりも、虐げられた人々、恵まれない人々のアイドルであったという理解は重要かも知れない。
アイドルをもっとも必要とする人々は誰か、アイドルがその力を最大限に発揮するのはどういう時か、ということがそこには表れている。
2.
一方、現代の職業アイドルのことを考えるならば、その継承された名称とは裏腹に、難しさもあることが分かる。まず第一に、現代の職業アイドルにおいては、その(神や理想に当たる)「何か」が何であるのかが曖昧だということ。漠然と「アイドルとはこういうものだ」というイメージのようなものがあるだけだ。そのため、何に尽くし、何を守れば良いのかハッキリしない。
これはファンから見ても同じだ。このアイドルは「何に」仕えているアイドルなのか、明確には分からない。分からないから、自分の理想を好き勝手に覆い被せる(誰かの言い方を借りれば「男の幻想を勝手に押しつける」)。実際にどうかは分からないのにも関わらずね。そこにギャップが生じる余地がある。
だから、卑近な話になるけれど、「茶髪になったくらいで」推し変をしたりする。ある人々にとっては「それくらいで」と思うかも知れないけれど、また別のある人々にとっては、その子が実は異教の神に仕えるアイドルだった…というくらい根本的な話なわけだ。これはとりわけ、(ボク自身も含めて)アイドルを宗教的アイドルとして認識するファンにとって顕著な傾向かも知れない。
しかしそれも結局のところ、アイドルが仕えるべき「何か」が曖昧にされていることによって生じている不幸なんだ(どっちの方に転ぶにせよ、それが明確にされていれば、そもそもそうしたギャップが生じる余地がなくなる)。
この「何か」が曖昧になっているということはまた、「報われる」という問題にも関わっているかも知れない。「努力は必ず報われる」というのは、48のひとつの標語になってきた。この言葉が意味するところは色々と考えられるのだけれど、ひとつ言えることは、これは利益供与型のモデルになっているということだ。ここでの目的は何よりも報われることであって、努力そのものではない。
それに対して、本来の宗教的アイドルにとっての目的は、信仰や奉仕それ自体なのであって、それによって得られるなにかではない。「信じるものは救われる」という言葉は一見、「努力は必ず報われる」と同じように見えるけれど、実際は信じることそれ自体によって救われる、ということを意味している。つまり、信じることそれ自体のうちに救われるということが含まれる。
これは、理屈としてはきわめて強い。たとえば、「人より何倍も努力したのに順位が上がらない」といった現実的/外的状況とは無関係に通用するからだ。実際、宗教者はそうしてその一生を(外的状況とは無関係に)幸福に過ごすことも出来るだろう。信じるべき「何か」が明確に定まっていない職業アイドルにはそれがきわめて難しい。その充足感は常に外的状況に左右される。
3.
もうひとつの難しさは、職業アイドルは宗教的アイドルとは異なり、(その「何か」がそもそも曖昧な上に)その人生をすべて「何か」に捧げられるわけではないということだ。彼女たちはいつか別の道を行かなければならない。
これはまず、アイドルという存在を、到達点ではなく中途のものとし*、そのためその「何か」に(それが何であれ)忠実であることを難しくさせる。それはさらにアイドルそれ自体の文化を築くことを著しく難しくもするだろう(アイドル文化を支えるべき当事者たるアイドル本人が数年しかそれに関わらないのだから)。
(*よくたとえに出される高校野球と比較しても、これは同じものではない。高校野球にはその先にプロ野球や社会人野球がある。すべての選手がそうなれるわけではないとしても、野球選手としてその後の人生を過ごし、さらに監督やコーチあるいは解説者として、球界の内側で一生を送ることのできる道がある…ということは決定的に違う。野球選手にとって仕えるべき「何か」は野球であるわけだ。もちろん)。
宗教的アイドルが指向性の問題だったことを踏まえるならば、職業アイドルはその点においてそもそも矛盾を抱えた存在だということになる。同じ方向を向くことこそが力の源泉であるのに、いつかは別の道を行かなければならない定めという矛盾。
そして、それはやや、死すべき定めにありながら、それでも生きねばならない人間という存在に似ている。職業アイドルは、むしろ/当然のことながら、理想に生きる宗教的アイドルよりも、そうした不条理を抱えた存在=人間に似ている。職業アイドルは常にその狭間で葛藤する。構造的にそういう構造になってしまっている。
つづく