現在公開中の映画、『ひつじのショーン 〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜』を見た。レビューを書こうかと思ったのだけれど、それよりもむしろ、考えたことを少し。
「技術と文化」
1.
ところが変われば何とやら。アニメーションに対する認識も変わるのかも知れない。
アニメーションを他のものと切り分けるとき、いくつかの方法がある。
もっとも一般的なのは、実写(live-action)かコマ撮り(stop-motion)かで分けるやり方。実写(live-action)ってのは、動いているものをそのまま撮るもの。コマ撮り(stop-motion)ってのは止まっているものを写して、それを動いているように見せるもの。
たとえば、固定したカメラでプラモデルの写真を一枚撮り、それからそのプラモデルを少し動かしてまた一枚撮るのを繰り返す(コマ撮り)。それを連続して映し出すと、まるでそのプラモデル自体が動いているように見える。
その動かしていくプラモデルの部分を(一枚一枚異なる)絵によって表したものがセル・アニメーションになる。セル・アニメーションが「アニメーション」だってのは、そういう意味なわけだ。
この分け方は、動きを表す方法によってアニメーションを規定している(ただ、デジタルになると、この分け方は必ずしも適切ではなくなる。端からコンピュータ内で作られる「3DCGアニメーション」は果たしてコマ撮りなのか)。
2.
イギリスのアニメーション・スタジオ、アードマンの作品、『ウォレスとグルミット』や『ひつじのショーン』はクレイ・アニメーションであると云われる。それは「クレイ/粘土」(のような素材)を少しづつ動かして撮影するからだ。
アメリカのスタジオをのぞけば、アカデミー賞長編アニメーション部門の常連になってきたのは、常にこのアードマンとジブリの作品だった。しかしこの2つ、アニメーションという点ではたしかに共通する部分があるけれど、別の点ではまったく似ていないと言っても良い。
まず、ジブリ作品は絵である…ということが挙げられる。セル画(ないしレイヤ)に描かれた二次元キャラクターと、粘土(状の素材)で作られた三次元キャラクターの違いはあまりに明らかだ。
日本のアニメは二次元であるということに重点が置かれてきた。たとえば「二次元同好会」と言った場合、その言葉は「アニメ・漫画・ゲームなどの二次元創造物を指す」といった具合に。そこでは、「アニメ」という語が二次元という語とほとんど同義語として扱われる。
そう考えるならば、「アニメ」という語は、アニメーション全体のうち(とりわけ日本の)二次元アニメーションを指す言葉として使われていると考えても良いかも知れない。
しかしながら、ここでの「二次元」という語は、単に物理的な性質だけではなく、ある種の価値判断を含んだ趣味的な性質を名指している。ある人が「二次元好き」と言ったならば、その人は単に平面性を好むというだけに留まらず、たとえばそこに表された理想化されたある種の非現実性を好むと言っていると考えるべきだろう。
そして、この「二次元」という語が、漫画やゲームをも指す言葉として用いられていることを考えるならば、その意味におけるアニメは、他のアニメーション(クレイ・アニメーションなど)よりもむしろ、(ある種の)漫画やゲームとの親近性を持っていることになる。
それらは単に、同じ二次元であるのみに留まらず、主題や内容面においても何らかのつながりを持っている。たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』のメディアミックス展開などはその代表例だろうけれど、そのようなただの一作品に留まらず、何か共通のものを前提にした広がりがそこにはある。
諸領域にわたるこうした広がり、それはおそらく、「文化」と呼べるものだろう。
3.
イギリスという国が『ウォレスとグルミット』や『ひつじのショーン』を生んだ背景には、クレイ・アニメーションの歴史もさることながら、たとえば『サンダーバード』や『きかんしゃトーマス』といった人形(?)劇の存在を忘れてはならないだろう。
イギリスが生んだそれらの作品は、ラジコンやパペットで実際に動かしているものをそのまま写しているわけだから、実写(live-action)であって、コマ撮り(stop-motion)ではない。つまり、技術的にはアニメーションではあり得ないわけだ。
しかしながら、人形を用いた作品という点で、それらは『ウォレスとグルミット』や『ひつじのショーン』と同じ系譜の上に乗る。言ってみれば、日本の「二次元文化」とは対照的な、三次元オブジェクトの文化がイギリスにはある。
そしていまや、『サンダーバード』も『きかんしゃトーマス』も3DCGで作られるわけだし、アードマンも3DCG作品(『アーサー・クリスマスの大冒険』など)を作る。
ディズニー/ピクサーがいちはやく3DCGへと移行したのは、ピクサーがグラフィックコンピュータの制作会社だったということ、そしてもともと自然現象や物理法則を重視していたディズニーが、それらをシミュレートするものとして3DCGを選択したという背景があるわけだけれど、イギリスの場合、より単純に三次元オブジェクトに対する嗜好があるのかも知れない。
いずれにせよ、そこには、アニメーションという技術的切り口だけでは語れないもの…文化という切り口を導入しないと測れないもの…がある。
4.
もうひとつ、『ウォレスとグルミット』などのクレイ・アニメーション、あるいはかつての『サンダーバード』や『きかんしゃトーマス』などの人形劇と、セル・アニメーション(あるいはそれに連なるデジタル・アニメ)とでは、大きな違いがある。
それは、カメラの用いられ方だ。
前者では、たとえば人間の代わりに人形が用いられるわけだけれど、実際にそうしたものを撮影して作られるという点では、いわゆる普通の映画と変わらない(実写[live-action]である『サンダーバード』や『きかんしゃトーマス』ではなおさらそう)。
そのため、こうした作品では、写真術の力というのをすごく感じる。映し出されたものが実際にカメラの前にあったのだ…という感覚。もっと言うと、「物の存在」を感じられるということ。
一方、(デジタル化されて用いられなくなったけれど)かつてのセル・アニメーションでもカメラは使われていた。撮影台の上でセル画や背景画を重ねて撮影するカメラがそれだ。つまりセル・アニメーションってのは、単に描かれた絵なのではなく、描かれた絵が撮影されたもの。だから、実際にはそこにも写真術が用いられている。
だけど、それはほとんど透明化されていた。ボクらが(当時の)アニメを見ても、そこにカメラの存在を意識することはないだろう。たとえ描かれたキャラクターや背景の存在を感じることはあっても、それは描かれた絵の内容に対してであって、セルそれ自体の物質性に対してではない。
そこは決定的に違う。
だからこそ、(『サザエさん』のデジタル化によって)日本のセル・アニメーションがすべてデジタルに移行し、撮影台が完全に姿を消したあとでも、『ひつじのショーン』は昔ながらのクレイ・アニメーションの手法で作られる。
なぜならばそこには、3DCGでは(いまのところ/決して)表すことのできない、カメラによって写された物の存在感、実際にそこにあるという重さがあるからだ…と、そんなことを考えた。