「曖昧なこと」(整理のために1)
ドラクロワの描いた≪民衆を導く自由の女神≫はアイドル像だと思う。
ボクはよく、「聖母マリア」(Virgin Mary)をアイドルにたとえる。言葉の来歴的にもそれは正しい。教会において崇拝される聖人の像などを「偶像(idol)」と呼んでいたものが、やがて、そのように崇敬を集める人をも指すようになったのが、現在の意味での「アイドル」だからね。
Virgin Maryを世界最大のアイドルとして捉える時、前面に出てくるのが、もちろん処女性(virginity)の話になる。処女でありかつ母であるという非現実的な聖性こそが、マリアをして世界最大のアイドルたらしめているものだ。
これを「人間だもの」で、回収してしまっては、なんの意味もないわけさ(よく、今の時代は〜だから、アイドルも〜だという議論を見かけるけれど、2000年変わっていないものが、今さら変わることもないだろうとボクは思うわけで)。
一方、その「人間らしさ」で人気を集めた聖人もいる。もうひとりのマリア、「マグダラのマリア」だ。諸説あるのだけれど、古来、彼女は娼婦であるとされてきた。実際にそうだったかというよりも、ここで重要なのはそう見なされてきたということ。
性的に不品行で贅沢三昧の生活を送ってきた「罪深き女」(カトリック的な価値観に従えばね)が、キリストに出会って悔い改めるという人間らしい逸話は、多くの人の胸を打ち、また多くの芸術作品の題材にもなってきた。
非現実的な処女懐胎という聖母マリアの聖性と、不埒な生活を悔い改めるというマグダラのマリアの人間性という(あるいは、峻厳さと寛容さと言っても良い)その2つは、宗教のもつ両義性ととともに、アイドルはいかにして崇敬を集めるかという2つの道を示している。
そういう意味で、ボクはさっしーは、マグダラのマリア的なのだと思っている(もちろん自由恋愛と売春を一緒にする気はない)。実際、マグダラのマリアは(聖母マリアを除けば)もっとも人気のある聖人だと言っても良い。
しかし、いずれにせよ、あらゆる点で正反対とも言えそうな彼女たちにも、ひとつだけ共通点があって、それは「神」に対する信仰心、「神」に対する忠実さだ。マグダラのマリアだって、悔い改めてキリストに帰依したから聖人となったわけで、それがなかったら、崇められることもなかった。
ここで、最初の話に戻る。ボクは「民衆を導く自由の女神」もアイドル的な存在だと思う。あれは実在の誰かというより、ある種の象徴的なキャラクター(マリアンヌ)なわけだけれどね。
彼女がアイドルであり得るのは、「自由」にすべてを捧げているからだ。「神」にすべてを捧げた2人のマリアのようにね。そうすることで、(同じ神を信奉する人々のアイドルになった彼女たち同様に)同じ自由を信奉する人々のアイドルとなり得る。
本来、アイドルの原理って、そういうものなんじゃないか…と、ボクは思うわけさ(たとえばロックスターだって音楽にすべてを捧げるからアイドル的な存在にもなり得るわけで)。
それじゃあ、現代日本の「アイドル」が信奉するものって、いったいなんだろう。ボクは、そこが曖昧なんだろうと思う(だからこそ、ガチだとか夢だとか恋愛禁止だとか、色んな言葉が出てくるのだろうけれど)。
現代日本のアイドルは、いったい何のために戦うのか。誰になんと言われようとも、それだけは譲れないって一点は、いったい何なのか。ボクらが共有できるものは、いったい何なのか。