「『ラブライブ!』と『けいおん!』と『あまちゃん』と。」
(注:完全にネタバレします)
1.
振り返ってみれば、テレビシリーズ終盤の『ラブライブ』で問題になっているのは、「3人が卒業してしまう。どうするμ's」という点です。それに対して、「この9人じゃなきゃμ'sじゃない。解散」とケリをつけたわけですよね。
それはそれでひとつの解決だったと思います。
しかしながら、劇場版では、その片付けたはずの問題をもういちど語り直します。それは、「卒業してもアイドルは続けられるんじゃない?」という形で問われることになります。そして、今度はそれに対して、穂乃果(たち)はスクールアイドルの素晴らしさを語ってケリをつけるのです。「スクールアイドル」だからこそ良いんだと。
つまり、この映画の問題圏は、それまでのμ's9人だけのものから、スクールアイドル全体のものへと拡張されているということです。しかし果たして、それはちゃんと成立している問いなのかと。
2.
この問題圏に違和感があるのは、それまで『ラブライブ!』はずっと9人だけの問題として語られてきたからです。ライバルグループとして「A-RISE」が設定されていたわけですが、それ以外のスクールアイドルなんて、ほとんど記号だけの存在に過ぎず、物語に影響を与えることもありませんでした。
そのように単なる記号として描かれてきた「スクールアイドル」が、この物語の最終的な解決に用いられるのは違和感がある…ということです。
この映画のクライマックスの大通りのシーンは、たしかに凄い数のモブを動かしていて迫力があるのですが、それでもどこか心に響かないのは、そうしたスクールアイドルたちの存在がこれまで語られて来なかったからでしょう。あれは、ほとんどゴジラ映画のエキストラに近いような、そんな印象がありました…その場だけの存在。
そして、この大通りのシーンには、『ラブライブ!』が抱えるさらに根本的な問題が潜んでいます…ってわかりますよね。ファンが居ないんです。ファンが誰も見ていないのに大勢でライブをしている。それって変でしょ…っていう。
ファンの不在…それこそが『ラブライブ』がTVシリーズ以来、ずっと抱え込んできたものです。
そもそも、この作品ではファンの存在も記号に過ぎなかったわけで、「アイドルを続けるべきか?」って問いが、端からピントがズレているように思えるんですよね。「みんな続けて欲しいと思っている」って、その「みんな」って誰だと。
たしかに人気がある設定にはなっているのですが、その「みんな」の顔が見えないために、その悩み自体がシリアスなものに思えないのです。
3.
やっぱり、『けいおん!』を例に出すのが良いと思うのですが、あれの場合もファンは記号に過ぎなくて、5人だけの問題なんですよね。
でも、『けいおん』はそれで別に良いわけですよ。だからこそ、テレビ版も映画版も最後はああいう形でケリをつけるわけで。それはそれで、こちらとしても納得がいくんです。
一方、『ラブライブ』が分かりづらいのは、優勝してしまうからでしょう。成功物語になっている。そうしたことによって、果たして解散という問題が9人だけの問題で済むのか…という別の問題を引き込んでしまっています。
そこにはさらに、アイドルというものの特性も絡んできます。アイドルってのは常に「誰かのアイドル」であって、自分たちだけじゃ成立しないんですよね。バンドと違ってファンがいなければアイドルは成立しないんです。
『けいおん』では、5人だけで演奏してそれがラストシーンとして成立するわけですが、それが『ラブライブ』では難しいってことですよ。
なのに、そのことは問題にせず、(まさに『けいおん』のように)9人だけの問題としてずっとやってきたから、最後のところで、その根本的なズレにぶち当たってしまった…という感じがすごくします。
あの大通りのシーンの違和感ってそういうことでしょう。
4.
もうひとつ似たような構図の物語として、TVドラマ『あまちゃん』を挙げることができるでしょう。じつは、『あまちゃん』でもファンの存在は記号に過ぎません。ですから、物語の進行に何の影響も与えないんです。
たとえば、アキちゃんが動画で人気になった…と言っても、それは数字の上での話ですし、お座敷列車に居たファンたちが、アキちゃんが上京した後どうしたかってことも描かれません(ヒビキなんてむしろ憎まれ役みたいに出てくる-笑)
ファン投票の総選挙で圏外になっても救済措置で拾われますし、それとはまったく関係ないところでGMTを辞めてしまいます。TVの仕事を手に入れるのはお母さんの(ある種の)コネですし、潮騒のメモリーで主演を務めるのも、かつて付き人をつとめた鈴鹿さんの推しがあったからです。
これはこれで、ボクはひとつの描き方だとは思います。ファンのおかげじゃないからこそ、アキちゃんが恋愛しても裏切り行為のようには見えないわけですよ。単にスポンサー(これも記号)との契約違反ってだけの話ですからね。
あれ、ファンのおかげで成り上がって、それでああいう展開だったら、かなりヘビーな空気になったと思いますし、アキちゃんどうなんだ…って感じになったでしょう。その辺を回避しているのは、やっぱり脚本がうまいんですよね。
で、『あまちゃん』は、そうしたファンの存在を捨象しているわけですが、でもファンに当たる存在が居ないわけじゃないんです。それはもちろん、北三陸の人々がそうなんですよね。アキちゃんとユイちゃんは「北三陸の人々にとってのアイドル」として描かれています。
(あのドラマで描かれているのは、職業アイドルそのものというよりも、むしろ「アイドル的な存在」とでも呼ぶべきものでしょう。「三代前から マーメイド♪」で、天野家の女は3代前から北三陸のアイドルだったと言うわけですからね。そういうものとして「アイドル」を提示しているわけです)
その関係は暖かいものでもあると同時に、ある種のしがらみのようなものでもあって。単純に良いものとも悪いものとも描いていないんですよね。そのしがらみから抜け出せないユイちゃんと、抜け出したけれど、やっぱり帰ってきたアキちゃん…。
その2人が最後、線路の向こうに歩き出すから、あれは表現として強いわけで(未来は開かれているってことね)。それはやっぱり、ちゃんとアイドルとファンという関係を描き込んできたからこそ、生まれたものだったと思うのです。
5.
一方、『ラブライブ』では、その問題をずっと回避してきたので…(たしかに妹ちゃんとかファンに当たる存在が居ないわけじゃないのですが、各話ゲスト以上の意味はありませんでした)。ですから、アイドルを続けるかどうかって問いが、そもそも大してシリアスなものに見えないんですよね。
何度も言うように、『けいおん』のように9人だけの問題としてやってきたわけだから、9人がそう決めたのならば、それはそれで良い筈なんですよ。ですからTV版はあれで良いわけです(9人がそれぞれどうするか…って問いは重要な筈なんですが、それは大して問われずに、全員一致で「辞める」って話になるので、そこはたしかに浅いとは思うのですが)。
そこにわざわざ(これまで描かれてこなかった)「ファン」という外部のファクターを入れて問題を立てているから、これはいったい何が問題になっているのだろう…? と、こちらは思えてしまうわけですし、その解決にこれまた(これまで描かれてこなかった)「スクールアイドル」という外部のファクターを用いているから、映画全体が空回りしているように見えるんですよね。
…と、思ったわけですよ。ですから、あの劇場版は2.5(物語に関しては1.5)という低評価をつけたわけなんです。
ただまあ…あれはむしろ、メタレベルで読むべきなのかも知れませんけれどね。モンスターコンテンツになってしまった『ラブライブ!』。周りは続けてくれと言うけれど、でもここで終わらせましょうっていうね。