記号としてのアイドル(誰がための戦い2) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 「誰がアイドルか」を誰がどうやって決めるのか…というのは古典的問題です。

1.
 かつては簡単でした。「テレビに出て歌って踊っている若い子」がアイドルだったのです。それを決めるのは、たとえば事務所だったり、放送局だったり、制作会社だったりスポンサーだったりしたわけでしょう。

 そうした人々が芸能界という一種特殊な世界を構成していて、その人たちがアイドルが誰かというのを特権的に決めていました。まさに、何が芸術であるかというのを「芸術界(アートワールド)」が特権的に決めているようにね(c.f.ダントー)。

 しかしながら、その神通力はいつしか通用しなくなります。秋元康が素人をアイドルとして売り出した「おニャン子」なんかは、そのことを明白に晒したシステムだったと言っても良いかも知れません。素人が次の日からアイドルになれるのならば、アイドルとはいったいなんなのだ…と、普通なら考えますよね。

 この傾向は、インターネットの発達によってさらに拍車がかかります。ブログやSNS、さらにはYouTubeやニコ生。いまや誰もが発信できる時代、個人がチャンネルや番組を持てる時代が到来したのです。

 ここにおいて、テレビに出る人=アイドルという概念は崩壊せざるを得ません。これをアイドル評論家の北川昌弘の考えにしたがい、「アイドルの死」と呼んでもいいでしょう。(彼自身は「アイドルの死」という言葉を使うわけではありませんが)彼はテレビに出る人こそアイドルだと考えるわけですから*。
*(テレビ番組「ASAYAN」から登場したモーニング娘。は、そうした北川的アイドルの最後の輝きだったと言っても良いかも知れません)

2.
 しかしながら、「アイドル」という言葉は、その言葉の中身を失いながらも、言葉そのものは残っていました。デュシャンによって言葉の中身を失いながらも、その言葉だけは残っていた「芸術」のようにね。

 そこに登場するのが、「AKB」です。「おニャン子」で既成のアイドル概念をぶっ壊して見せた秋元康が、ここで再び登場します。彼はおそらく、こう考えたのです。「誰もがメディアに出られる時代ならば、むしろ逆に(むしろ逆に↑?)メディアに出ないアイドルも成立するのじゃないか」…と。

 そこにこそ、劇場+握手会(+のちには総選挙)というAKBのスタイルが生まれる素地があったでしょう。

 ただ、依然、「アイドル」という言葉の中身は失われたままですから、結局、その言葉は何も指していないことになります。したがって、何らかの形でその中身を埋めることが要請されます。「こういう存在がアイドルなんだ」というね。

 そこに分かりやすく出てきたのが、(いわゆる)「恋愛禁止」だったように思います。「恋愛禁止=アイドル」だとね。こうして再び、その言葉の中身が埋まった(ように見えた)わけです。

 そして、このことにはもうひとつの効能が含まれていました。「テレビ」という枠が外れたことで、「誰がアイドルか」を決めるのが、特権的な人々の専権事項ではなくなったのです。つまり、アイドルの選出が民主化されたわけです。(旧権力の側から「恋愛禁止」を否定する発言が出るのは、そういう意味ではむしろ当然なのですね)。

 「恋愛禁止」。それはむしろ、それぞれのファンに対する「契約」(ファウスト的な意味における)のようなものとして機能しました(このファンとの「契約」があるかないかで、普通に暮らしていて恋愛していない子と、アイドルという存在を切り離せるとボクは考えます。ただ単に男断ちをしているそこらの子をアイドルだとは名指せないわけですよ)。

 ボクらは彼女たちに力を与える代わりに、どれだけテレビ/メディアに出ていようが、その「契約」から外れるのならば「その子はアイドルではなくタレントである」と突っぱねることが出来るようになったのです(実際、ボクは48を純粋なアイドルグループであるとは見なしていません)。

 それどころか、それは過去へと遡り歴史を改変することすら可能にしました。グループを辞めてから「実はあの頃…」みたいな子は、そもそも生まれてから一度もアイドルであったことなどなかったのだとね。実際、この新しい原理はあまりに強いため、そこに何ら曖昧なものを挟み込む余地はないほどです。1か0かしかない。

3.
 これは一見、ボクらの望みによって築き上げられたシステムのように見えますが、それだけではない筈だ…とはボクが言いたいことです。なぜならば、これが単なるボクらの「階級闘争」であるに留まらず、そうして生まれる筈の民主主義というものこそが、みんなを幸せに出来ると信じているからです。

 それがたとえ、芸術の世界であれ、芸能の世界であれね。元来それらは、そうしたものとは相容れない世界だと考えられてきたわけですが、ボクはそうは思わないわけですよ。それは研究者としてのボクの芸術に対する姿勢でもありますし、また「AKB共和主義者」としてのボクの信念でもあります。

 48に限らず、これまで、数多くの子を見てきました。芽が出る子、芽が出ない子。素晴らしい資質を持っていたのに、ほんのちょっとした運で出てこられなかった子。古くさいしがらみや一部の特権者たちの不興によって潰されていった子…。

 実際にそういうことが「あるか」どうか…と言うよりも、そういうことが「ありえる」体制そのものをボクはぶっ壊したいのですよ(だから、48にも労組を作れと言うわけですし)。そのためにボクらの力を使えと。

 しかしながら、いまだ「敵」は強大です。彼らには(より直接的な)力がある。時代はボクらのものの筈ですが、しかしいつの時代でも「反動」や「保守」が現れて抵抗勢力になるのと同様、この世界でもその気配は濃厚に残っています。

 あまつさえ、当のアイドル本人たちでさえ、旧体制にしっぽを振ります。彼らには力があって、そして彼女たちには時間がない。「民主主義の方が絶対に優れているし、みんなが幸せになれるんだ」…と、ボクらがどれだけ説いたとしても、その説得力は、権力者によって目の前にぶら下げられた人参の誘惑する力には勝てません。

 「ただ誰かのおこぼれに預かるだけじゃなく、自らの力でなにかを生み出すことができる革命の闘士たれ…そうすればこの世界は全体もっとより良いものになる」と言ったとしても、そんな言葉は虚しく響くだけです。
 
 ボクらはすでに、この戦に負け始めているのかも知れません。つねに「正しい」*ものが勝つ…とは限らないのです。歴史には、そんな結末が山ほど転がっています。
(この言葉でボクは複数の正義に言及しています。ここではつまり、ボクにとっての)

 彼女たちに戦う気がないのに、どうしてボクが戦う理由があるのか。それはいったい、誰がための戦いなのか。そんな戦いは結局、自己目的化しているだけじゃないのか。そんなものは結局、単に自己満足に過ぎないのじゃないか。

 それでもボクは、矛を収めるわけにはいかないのです。なぜ…と問うたその先に答えはありません。