「アイドルというゲーム」
(定期なので、言っていることはいつもとほとんど同じです。こういうのは何度も何度も繰り返すことに意味があると思っているのでね)
1.
「どんな自分でも受け入れてほしい」という承認の欲求は、誰もが多かれ少なかれ持ち合わせているでしょう。どんな自分も受け入れてくれること。それはとても心地よいものです。
しかし、それが受け入れられる場もあれば、そうでない場もある・・・と理解することは大切です。
たとえば、家族というのはそれが成立する場合が多い。理由は単純です。たとえどんなヤツであろうと、親が親であり、子が子であるということ、兄が兄であり、妹が妹であるということ、その事実自体は絶対に変わりようがないですからね。
あるいは、昔なじみというのもそれに近いところがあるかも知れません。孔子には、こんな逸話があります。彼には、ろくでもない昔なじみが居たのですが、それでも付き合うのをやめませんでした。そこで、彼の弟子が「何故ですか?」と問うと、孔子は「どんなヤツでも昔なじみは昔なじみだから」と答えたのです。
つまり、こういう場合、そいつがどういう人間であるかというそれ以前に、外から立場が規定されているわけですよ。たとえば親であったり子であったり、昔なじみであったりというね。だから、どういう人間であろうが、その立場には変わりようがない。
2.
一方、アイドルというのはそれが成立する場ではありません。その理由はこれも単純です。アイドルには、アイドルであるということそれ自体の内に、ある種の倫理規定が埋め込まれているからです。その倫理規定を破ってしまったらもうアイドルではなくなってしまう。
これはスポーツ選手にたとえられるでしょう。たとえば、手を使ってしまったら、そいつはもうサッカー選手じゃなくて、ラグビー選手です。手を使ってしまったその時点で、別の何かになってしまっている。
ただ、サッカー選手とアイドルが違うところは、その規定が、フィールド上のみならず自己の全領域(生活)にまたがるものであるということしょう。
(ゆえにこそ、逆説的に、アイドルは「承認」を求める欲求が増していくのかも知れませんし、そしていつかはそれに耐えられなくなって、アイドルというゲームのフィールドを去って行くのかも知れません。ただし、生活の全領域に関わるという点では、たとえば騎手の体重制限も同じです)
そして、もうひとつ異なるのは、その規定が自己の全領域にまたがるという、そのゆえに(本人以外)誰も本当にその規定に従っているかチェックしようがないということです(たまたま見つかるヤツはいますけれど)。
その点では、むしろゴルフに近いと言えるかも知れません。ゴルフは「紳士のスポーツ」と言われます。なぜならば、ゴルフには審判がおらず、自己申告制を採用しているからです。インチキしようと思えば出来る(かも知れない)けれど、それをしないから「紳士」だってことなんですよね。
それでは、たとえばインチキなヤツがいたとして、いつも誤魔化していたとしたらどうでしょう。そいつはそもそも一回もゴルフをプレーしたことがなかった、つまり一度もゴルファーじゃなかったということになるのではないでしょうか。そいつは、自称「ゴルファー」であって、真の意味でのゴルファーではないのです。
アイドルってのも、そのようなものです。そのゆえにこそ、「アイドル」ってのは、「どんな自分でも受け入れて欲しい」ってことが成立しないのです。倫理規定から外れた瞬間、彼女はアイドルではなくなってしまうからです。
それどころか、自称「アイドル」ってだけで、実際は一度もアイドルじゃなかったヤツだって居ることになるでしょう。
そうした時に必要なのは、「アイドルったってこんなもん」と、アイドルという概念の方をねじ曲げてしまうことではなく、「そいつがそもそもアイドルじゃなかった」と切り捨ててしまうことですよ。そうでなきゃ、そのゲームを守れない。でしょう?(サッカーとかゴルフの例を考えれば分かること)
3.
たしかに、アイドルというゲームのルールはどこかに明文化されているわけじゃありません。だけど、だからこそ「恋愛禁止」という分かりやすいテーゼにみんな飛びついたわけですよ。それは、誰から見ても分かりやすく、共有できるものだったからです。「アイドルというゲームはこういうものだ」ってことが、もう一目瞭然になるようなね。
そのルールが正しいかどうか、なんて問いは大して意味ないんです。大事なのは、このゲームがゲームとして成立するために、他のものと差別化する何かが必要だということだけであって、それ自体が正しいかどうかなんて(ぶっちゃけ)どうでも良い。
サッカーで手を使わないことが正しいかどうかなんて誰も気にしないでしょう? ただ単に、手を使うヤツはサッカー選手じゃないってだけのことですよね。手を使いたかったら、あるいは手を使うゲームが見たいなら、ラグビーに行ってくださいと。ただし、ボクらサッカーファンはサッカーが好きなんですと。もうホントにただそれだけの話ですよ。
それに、それぞれが勝手にルールを作って、それぞれが勝手に別のゲームをしているんだったら、もう誰もどこにも集まる必要はないでしょう? だって、そんなもん自分たちで勝手にやってれば良いだけの話だし・・・なんと言うか、要は「ひとり遊び」と変わらないのでね。応援するヤツだって必要なくなる。
そうなったら、ただ個がバラバラに個として存在するだけで、アイドルという領域が雲散霧消していくだけですよ。ホントに呆れるほど単純な話なんですが。
だからボクらには、このアイドルというゲームを規定するものが必要なんだし、それをずっと言い続けていく必要があるんです。それは男の幻想だとか何とか、じつはほとんど関係ない(そんなものは常にどこにでも存在しています)。このゲームを他のゲームから本質的に区別する何かが必要だってだけのことですよ。そうして作られたゲームが好きかどうか、それはもう単に、個人の趣味の問題です。
4.
もうひとつ。なぜ、「恋愛禁止」が受けたのか。それはメディアから「アイドル」を取り返すための手段だったんですよ。良いですか? かつては、メディアが「この子がアイドルだ」って名指しした子がアイドルでした。たとえそれがどんな子であれね。つまり、アイドルであるか否かは、外から規定されていたのです。
逆説的に言えば、だからこそアイドルというゲームを内から規定する何か(ルール)が必要なかったわけですが。でも、それはつまりどういうことですか。それは単に、メディアやいわゆる芸能界が特権的に「アイドルが誰か」を決める権限を有していたってだけのことでしょう。
でも、「恋愛禁止」ってのはそうじゃありません。それはもうメディアがどうこう以前に、アイドルというゲームそのものの内に埋め込まれているものです。だから、メディアが「この子がアイドルだ」と言おうがなんと言おうが、ボクらが「アイドルじゃないヤツはアイドルじゃないんだ」と突っぱねることが出来るようになったんですよ。
それはつまり、アイドルという存在が民主化されたってことに他ならないんです。だからこそ、48はあれだけのエネルギーを持っていたわけでしょう?
いま、ふたたびメディアや芸能界に権限を戻そうなんて、ただの反動主義ですよ。そして、この世界にはそうした変節者が腐るほどいるんです。ウンザリすることにね。