今回は直接SFに関わるというよりは、間接的に関わる話。しかも、趣味に走ったあげく、余談的な積もりだったのに、かなり長~く(5700字程度に)なってしまいまして(-_-;)>
(お時間のあるときにどうぞ)
「『スター・レッド』、あるいは超能力SFについて(その2)」
1.
手塚さんとの対談で興味深い場面はいくつかあるのですが、ひとつは性にまつわる話です。「女性のSF作家が少ない」という手塚さんは、萩尾作品のように女性的な視線が入ったSFの重要性を説きます。
その流れの中で、萩尾さんは自分の描く男性キャラクターにセクシャルなものを感じるか? という話になるんですな。で、ここの会話がいまいち噛み合わないんです。
手塚:竹宮さんにしてもあなたにしても、なんで好んで男性を描くのか。萩尾:いや、私は子どもが好きだから。手塚:そうすると、中性的に見てるわけ? (中略)萩尾:そうですね、どちらかというと、理想形というか…。手塚:ということは、あれにセクシャルなものは感じないわけ?萩尾:私の場合はあまり感じていないです。手塚:つまりそこに愛情なんてものが入ってるでしょう。それは主人公が男だということを意識してるんじゃないの?萩尾:愛といってもプラトニックだし、子どもだから……。手塚:子どもだからなんていわないでよ、ぼくなんかいちばん子どもマンガを描いているんだから。男が見ると、あなたのは男性として描いている。子どもなら子どもの色っぽさが感じられるんです。
「萩尾望都―女性SF作家はなぜ少ない」『手塚治虫対談集4巻』p.44-45.
手塚さんは性的なものを前提として話をするのですが、萩尾さんは、あくまでも「子どもだから…」と返す。そして、この少しあとの流れで、『11人いる!』のなかでの(萩尾さんの)「いちばんの理想形はフロルなんです」と言うんですな。
中性的な存在…というか、いわば「性的に未分化な存在」に惹かれる…ってことだと思うのですが。実際、フロルというのはそういうキャラクターですよね。彼/彼女の種族は、成人に達するときに男性になるか女性になるか決まり、それまでは未分化の状態=メニールとして暮らしている。
萩尾さん作品の中性性ってのは、たとえば『トーマの心臓』を翻案した『1999年の夏休み』(金子修介監督)において、主人公の少年たちを全員女の子が演じるってことにも現れていましたが…この問題は、おそらくもっと本質的なことで。
もちろん、手塚さんも中性的な存在を描くことがあります。たとえば『リボンの騎士』なんか典型的ですよね。でも、あれは未分化のもの…というよりは、むしろ宝塚的なものでしょう。男性の仮面をかぶった女性…というね。あれはむしろ仮装の問題に近い。
あるいは、『火の鳥』でも(もちろんヤマトタケルの神話という物語上の要請もあるんですが)オグナが女性に変装する場面があります。ただ、あれもどこか歌舞伎の女形を連想させるんですよね。その意味では、(手塚さんが用いる)「色気」って言葉はピッタリきます。
どちらも、本質的に未分化の状態にあるフロルとはやっぱり違うんですよね。
この視点って、重要だと思うんです。手塚さんは理解しなかったようですが、ボクは分かる…と思うんですよね。これは年齢というよりは、世代の問題だと思うんですが。
つまり、萩尾さん的な感性…あるいは想像力ってのが、その後、優勢になっていき、ボクはそうしたものを見て育ってきた…ということです。そうして、それこそがボクがテーマとしてよく取り上げる現代の去勢された男子…という考えにも結び付いていきます。
2.
ここで述べられている考えがなんで重要なのかと言えば、それが出てきた時代ですよ。『11人いる!』の連載開始が1975年ですか…。で、この対談は、おそらく1977年。その後、1978年に『スター・レッド』。この時代ってのが、すごく意味深長だと思うんですよね。
なぜならば、アニメの世界では、1974年に『宇宙戦艦ヤマト』があって、それから5年後…1979年に『機動戦士ガンダム』が出てくるからです。アニメ史では、ここに一大転換点があったとされているのですが、『11人いる!』とか『スター・レッド』ってのは、この5年の間に入ってくるわけですよ。
もともと、萩尾さんも富野さんも、手塚さんに影響を受けて、この世界(マンガとアニメという違いはあるにせよ)に入ってきた人です。萩尾さんは、「高校2年生のときに手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志し」たそうですし、富野さんは、もちろん言うまでもなく虫プロ出身者です。
手塚さんの影響を受けた2人が、しかしながらその呪縛から逃れて1970年代後半に成し遂げたこと、それはなんだったのでしょうか?(少女漫画がその後どう展開して行ったかはボクには分からんので、少なくともアニメに関する限りね)
『ヤマト』と『ガンダム』を切り分けるものはいくつかあるのですが、ひとつ重要なのは「男性性」ということでしょう。ヤマトの主人公古代進が、男らしい男=ヒーロータイプであるのに対し、アムロはそうではありません(親父にもぶたれたことないのに!)
もちろん、アニメにおいては、それまでもつねに少年が主人公だったわけです。それは対象としている視聴者層が少年だったからなわけですが…。
しかし、1963年の『鉄腕アトム』から十数年を経たこの時代には、20代や30代になっても、少年向けアニメを見続ける層が出てきます。ここに、大人になれない存在…というのが、ひとつの争点になってくる契機があるでしょう。また、それに伴って「大人」に対する拒否感もアニメに描かれるようになっていきます。
『ヤマト』は、それまで少年向けだったアニメから一転して、青年も対象にしたことで成功した作品です。ただ、その世界観ってのは、どちらかと言うとクラシックなものでした。ヤマトのクルーってのは老若男女入り混じっており、なかでも沖田艦長は尊敬されるべき理想的父親像として描かれます。いつかは、こういう風になるべき理想の存在としてね。
それに対して、『ガンダム』におけるホワイトベースのクルーってのは、ほとんどが子どもです(ブライトも10代ですし)。大人…たとえば連邦の上層部は汚い大人として描かれますし、ランバ・ラルなんかは尊敬に値する人として描かれますが、それでもアムロからすると、どこか距離を感じる存在として描かれています。
なにより違うのは、最大の敵役であるデスラーとシャアです。デスラーは勇敢な戦士…男らしい男ですよね。いわゆるマッチョマンなわけです。その点、シャアは違います。敵役のくせに未成熟で、どこか青二才なんですよね(もちろんそこが魅力なんですが)。
シャアは、アムロとララァを奪い合いますが、のちに『逆襲のシャア』で言ったセリフが、シャアのララァに対する感覚をよく現しています。「ララァ=スンは私の母になってくれるかも知れなかった女性だ!」。
シャアには富野さん自身が投影されているというのはよく指摘されることですが、このセリフに現れているような感覚が、『ガンダム』全体を貫いています。『ガンダム』というのは『ヤマト』に比べて、いわば幼児退行しているわけですよ。
そこで描かれているのは、それまでのアニメに出てくるような、大人への階段としての少年ではなく、むしろ大人になれない…あるいはなれなかった存在なんですよね。
3.
この事態は、90年代の『新世紀エヴァンゲリオン』に至ってさらに進行(退行)します。シンジくんはエヴァ初号機に乗るわけですが、物語が進むに連れ、エヴァの内部ってのが母親の胎内だってことが明らかになります。幼児退行しすぎて胎児にまで戻ってしまっているわけですよね(^_^;)
庵野さん自身は、こうした傾向をかなり皮肉的に見ていて、だからこそ『エヴァ』はああいう結末を迎える(TVと映画と二度に渡って突き落す)わけでしょう。ここまで見てきたように、幼児退行するキャラクターってのは、アニメに引きこもる視聴者の比喩になっていますから、現実を突きつけるわけです。それは物語的にも(写真を用いるような)手法的にも。
庵野さんっていうのは、やはり宮崎さんの弟子なんですよね。宮崎さんも(自分はアニメ作るくせに)「アニメなんか見てないで外に出ろ」って言う人ですから。それは、やはり幼児退行に対する警鐘でもあるわけですよね。だからこそ、宮崎アニメってのは典型的な成長物語の側面を強く持っているんだと思うのですが。
じつは、これ富野さんも言っているんですよね。「アニメを見るな!」と。これがすごく面白いところなのですが、富野さんも庵野さんも(宮崎さんとは逆に)幼児退行していくキャラクターを描きながら、自身は「そこから抜け出ろ」と言う…。
しかし、こうした想像力は(彼らの警鐘にも関わらず)その後も生き残っていった…とボクは見ているんです。むしろ、その幼児退行した部分だけが抜き出されて肥大化していってしまう。視聴者たちは、『エヴァ』から痛い部分を切り離して、心地よい部分だけを消化していくようになるのです。
最終話の後半にある「あり得たかもしれない世界」。俗に「学園エヴァ」と呼ばれるパートは、「どうせ君達が観たいのは、こんなものなんだろう」という作り手の嫌味が込められたものだが、それすらもファンは自分達の嗜好品として消費した。
そこに出てくるのが、例の「ハーレム系」ってヤツですよ(「ハーレム系」の多くが「学園エヴァ」の構造を持っているのは示唆的です)。
4.
「ハーレム系」ってのは、主人公の男が女性に囲まれている世界ですから、それはもちろん、母体の中の胎児と類比的に考えることができるでしょう。
男が決断してしまうと、その構造が崩壊してしまう「ハーレム系」は、決断主義の立場から批判されることがあります。
それは、幼児退行してしまった主人公に大人=男になれ…という批判として捉えられるでしょうし、幼児退行してしまった主人公がアニメに引きこもる視聴者の類比であったことを踏まえれば、そこには、宮崎/庵野的な批判と同様のものを見出すことが出来るでしょう。
ただ、現状、アニメという世界が、ファンと制作者とで自足できている状態なので、そうした批判を脇において、成長を止めたまま進んで行くことができてしまうんですよね。良かれ悪しかれね。
それはともかく…「ハーレム系」ってのは、男性の一方的な願望=性的欲望が具現化されてきたものだと捉えられてきたわけですよ。「決断主義」を唱えた宇野さんが「レイプ・ファンタジー」と断罪したようにね。
でも、ボクは常々、それは違うんじゃないかと思ってきたんです。それは『うぽって』論なんかでも書いて、レポートで提出しましたけど(笑)
今回、萩尾さんの対談を読んでいて、色々はっきりと見えてきたこともあり、また、別の側面にも気付いたんですよね。
それはひとつには、「ハーレム系」の原理は、ここまで書いてきたように、もともと幼児退行の原理の延長線上にあるんだってこと。「去勢」というよりも、むしろ幼児退行して未分化の状態に戻ってしまうから、男性性を失うんだってこと。
あれらは、幼児退行してしまった主人公なんで、そもそも性的に未分化の状態=不能なんですよね。だから、決断しないんじゃなくて、出来ない。未分化の状態=不能なんで、そもそもセックスができないんです。
え~…なんか生々しい話になって申し訳ないですが(^_^;)
そしてもうひとつは、そうした幼児退行ってのは、単に男性の側の願望ってだけじゃなく、そこに女性的想像力も入っていたのじゃないか…ということです。実際に影響を及ぼしたか否かはさておき、時代状況とか潜在的無意識とかそういうレベルでね。
(宮崎さんはもとより)富野さんとか庵野さんとか、実際の制作者がどれだけ「大人になれ!」というメッセージを繰り返しても、なぜボクらは成長しない方を選ぶのか…という問いに対して、もちろん「単にそれが居心地が良いからだ」と答えることはできます。
しかし、もう一方で、女性の側の想像力…つまり母体の方にも、それを望む部分がどこかにあったのではないか…と。個々というよりは、社会のレベルでね。もちろん、全体がそうであるとは決して言いませんが。
(この観点で言うと、「ハーレム系」の原型を作ったのが高橋留美子さんだってことも重要なんですが、それは今回は置いておきましょう)
ここで少し話は逸れるのですが、これがボク自身にとって問題であるのは、「ハーレム系」というのはアイドルの構造と類比的だからなんですよね。
ボクがアイドル好きになったのは、(以前にも書いたように)『ヴァニーナイツ』というドラマがきっかけなのですが、それは意図的に「ハーレム系」アニメの構造を持ち込んでいたんです。もともとアイドルと「ハーレム系」ってのは、親和性が高いんですな。
だから、ある意味ではドルヲタってのは、(アニヲタ同様に)成長を拒否した人たち…とも考えられるんです(ボクがそうであるように)。しかしながら、アイドルが存在しなくてはドルヲタが存在しないのも事実なわけで。それは決して望まれ得ぬ関係ではない…筈なんですよね(ボクはそう思いたいわけですよ)。
一方、アニメってのは別に作り手が女性である必要はないわけですから、一方的に男性の側の願望で作られる…と考えられるかも知れません。しかし、どうもそうとも限らないのではないかと…。もちろん、「ハーレム系」ってのは、一種の奇形児みたいなもんなので話は別でしょうが、少なくとも、その一歩手前…『ガンダム』や『エヴァ』の段階まではね。
(興味深いことに、ボクの周りの女の子でも、あるいはSKE二次元同好会のメンバーでも、『エヴァ』や初代『ガンダム』の話は通じるんですが、『ヤマト』の話は通じないんですな)。
5.
そういう意味で、萩尾さんが1975年の段階で描き、1977年の対談で述べていることは、かなり時代を先取りしているというか…予見的なものだったように思うんです。なんでアニメがこういう風に進んできたかって、萩尾さんの作品を読んで、その言葉を聞くとよく分かる…と言うかね。
それは、アニメを見ているだけじゃ…あるいは、手塚/宮崎/富野/庵野ってアニメ界の巨人たちの言葉を聞いているだけじゃ…分からなかったことなんですよね(『11人いる!』はアニメ化もされていますが、それは1986年なので、本来どういう位置に置くべき作品かってそれだけ見ても分からないんです)。
実際、『ガンダム』に萩尾作品の影響があったか…それは分かりません。でも、『ターンエーガンダム』の文庫版は富野さんの希望で萩尾さんに挿絵を依頼しているんですよね。だから、もちろん読んでもいて、高く評価もしているんでしょう。
また、『エヴァ』が明らかに少女漫画の影響を受けているってのは、多くの人に指摘されてきたことです。庵野さんは「中学生の頃は特に少女漫画を大量に読んでいた」そうですし、その時代ってのが、(庵野さん1960年生まれなんで)まさに萩尾さんの出てきた時代なんですよね。
手塚さんがとうとう理解しなかった萩尾さん的な想像力ってのは、そうした作品の底流のどこかに流れているのではないか…と。そして、それが制作者たちの意図すら越えたところでふと湧き上がって、(また別のものと組み合わさって)新たな流れを作り…って、そんな感じがね、少ししたんです。
6.
…今回もほとんど『スター・レッド』の話をしませんでしたが…次回はちゃんと「『スター・レッド』、あるいは超能力SFについて」の話になる予定です(^_^;)>
少し予告をしておくと、性の問題ってのは『スター・レッド』にも現れていると思うんですが、それは少し変奏されているんですよね。つまり異種族の問題になっている。
異種族の問題がなぜ性の問題に結びつくかと言うと、「セックスできるのか?」ってところですよ。だからこそ、異種族ってのは清浄な存在として描かれることがある。たとえばE.T.のようにね。
ただまあ、次回は性の問題そのものってよりも(それは今回やったんで)、その異種族とか超能力とかって話になると思います。次回はちゃんとSFの話します(笑)
つづく