ソロモンの偽証 後篇・裁判
2015年日本、146分
監督:成島出
主演:藤野涼子
概要
宮部みゆきのミステリー巨編を映画化した『ソロモンの偽証』の後編。男子生徒の転落死により動揺が広がる中学校内で、生徒たちが自主的に行う校内裁判の様子を臨場感たっぷりに映し出す。前編同様成島出監督がメガホンを取り、佐々木蔵之介、夏川結衣、永作博美、黒木華といった実力派キャストが集結。オーディションによって選出された生徒役たちも続投する。裁判によって明らかになる、ショッキングな真相に言葉を失う。(シネマトゥデイより)
感想
前後編の後編だということもあって、冒頭に前編のダイジェストが入るんだけれど、それでも序盤は少し気持ちが入っていくのが難しい。裁判がはじまる頃にようやくボクのリズムが映画のリズムに合ってくるんだけれど、今度は映画自体が少し中だるみの感じになる。
小説だったら、「何月何日」「何月何日」って分節することで、本質的に流れを切ることが出来る。だけど、時間芸術である映画だと、そうして分節しようとしても、常に時間が流れていってしまう。それが中だるみを感じさせてしまう理由なのかも知れない。
それに、気になるところはいくつかある。「大出くんたち」って言っているのに、他の2人どこ行った? とか。柏木くんの人物造形とかね。
でも、これは、ほとんど名作だと思う。
子どもたちの演技がこなれていないんだけれど、それはむしろ、あらゆるものに引っかかっていくような、この年代の子ども特有の尖ったところを表している。これ、むしろ上手すぎない方が良いんだよね。
暴力的な場面もあるし、怖い場面もあるんだけれど、演出にどこか品があって、安っぽい感じにはなっていない。だから、板垣くん演じる神原くんなんかは、どこか『時をかける少女』の深町くんを彷彿とさせる趣きがある。
こういう気品ってのは、映画にとってはなにより大事だと思える。
☆☆☆☆★(4.5)
物語☆☆☆☆★
配役☆☆☆☆★
演出☆☆☆☆★
映像☆☆☆☆★
音楽☆☆☆☆★
注:思いっきりネタバレします
1.
『ゴーンガール』と同じように、これもミステリーだと思ってみると肩透かしを食らうかもしれない。手がかりは前編でほとんど与えられているから、この後編は謎解きってよりもむしろ答え合わせに近い感じになるし、もっと言えば、その真相自体にはさして焦点は当たってない。
補助線を引くとしたら、むしろ『デスノート』かも知れない。この作品はおそらく、『デスノート』に対するアンチテーゼとして読むことができる。
キラは犯罪者を裁くのに『デスノート』を使うわけだけれど、どうやって犯罪者か否かを判断しているか…と言えば、じつはマスメディアの情報で判断しているんだよね。どんだけウブなんだよと。それに対して、この作品ではマスメディアはまるで信頼できないものとして描かれている。
ただ、それは(まさに『ゴーンガール』がそうだったように)現代の作品では主流なものだろう。この作品が『デスノート』に対するアンチテーゼとして機能しているのは、そうしたマスメディアに対する姿勢だけじゃない。それはむしろ、ある種のカタルシス(浄化)の問題だ。
2.
ボクは、『デスノート』に代表されるような、「警察や司法に任せてらんないから、自分で罰する」という思想は、じつは単なる不満解消に過ぎないと思っている。自分の気に入らないことを「正して」それで気持ちがいい…って、ただそれだけの話。
もちろん、それはそれである種のカタルシスがあるわけで(カタルシスの典型的な例は、たとえば水戸黄門がそうなわけだけれど、あれは意図的に悪いヤツを作って、それでその悪いヤツが懲らしめられるから、見ている方は気持ちが良いわけだよね)。
そういう形式のカタルシスって、その行為が正しいか正しくないか、それによって「犯人」が更生するかどうかってじつは関係ない。要するに、社会的に「悪い」とされたヤツを懲らしめるのが気持ち良いってだけの話だから(3.11後に巻き起こった東電バッシングと同じ)。
だからこそ、『デスノート』は、もっとも純粋な形式の懲らしめ=死を提供するわけで、だからこそ、多くの人に受けた。ギロチンの時代から、さらし首の時代から、いやもっとずっと昔から、大衆ってのはそういうもんだったし、そういう大衆の不満の捌け口として、それらは常に社会の一部としてあった。
3.
でも、『ソロモンの偽証』で描かれているのは、まったく別の形式のカタルシスだ。それは「贖罪のカタルシス」とでも呼ぶべきもの。キリスト教では罪を告白することによってゆるされるという考えがあるけれど、これがそのカタルシスの典型的な例だろう。
(中世ヨーロッパの町には、一方では広場に処刑台があり、そしてまた一方では教会があったわけで、この2つのカタルシスは、キリスト教世界の両輪なのかも知れない)
裁判を開くから、この映画では、一見、前者のカタルシスを目指しているかのように見える。犯人捜しをして、それで懲らしめるっていうね。でも、そうじゃないんだ。裁判冒頭、寝ぐせの判事くんは言う。「この裁判は誰も裁きませんし、罰を与えることもできません」と。
それに、前篇の最初の方で、じつはこの事件には犯人なるものは存在しないということが示唆されている。だから、問題はむしろ、それぞれの登場人物が抱える「罪の意識」をいかに救うかって点になってくる。そして、そこに対して、この裁判という装置が機能していくことになる。
弁護士役の神原和彦はこの裁判の最後に真相を告白することで、罰せられること(懲らしめられること)を望むわけだけれど、検事役の藤野涼子が同様の悩み(樹里と松子を助けられなかったこと)を告白することで、2人ともにカタルシスされる。そして「偽証」を行った三宅樹里は、松子の両親に罪を告白することでカタルシスされ、そうして「贖罪のカタルシス」が成就していく。
(その過程で、適切な対応が取れなかった津崎先生なんかもカタルシスされていく)
ただ、柏木くんだけはカタルシスされないわけで、そういう棘を残しているところが、なんとも言えない気持ちにさせる。死んでしまったら終わりだよ…っていうね(その辺もじつは、自殺を戒めるキリスト教的ではあるんだけれど)。あのエンディングは大円団でハッピーみたいな終わりに見えるかも知れないけれど、じつはかなり冷酷でもあって。
そういう棘を残しつつも、そういう柏木くんを後ろに残しつつも、それでも神原和彦や藤野涼子は生きていかなければならないわけで(あるいは自分のせいで死んでしまった松子を後ろにしても三宅樹里は生きていかなければならないわけで)それはメッセージとして、かなり強いものだと思える。色んな罪を背負って、それでも生きていけっていうね(だからこそ、贖罪が重要なテーマになるわけで)。
4.
問題になるのは「その後、いじめや自殺は起こっていない」ってセリフだと思うんだけれど、あれはたしかに唐突感があるんだ。ただ、いわんとすることは分かる。
たとえば、大出が樹里たちをいじめるのは、父親から受けた仕打ちを彼女たちに転嫁しているわけで、そうして気持ちがすっきりするっていう、これも一種のカタルシスなんだよね。そして、もちろん樹里たちが大出たちに復讐するのも、彼らをそうして「懲らしめる」ことで気持ちがすっきりするというカタルシスなわけで。
だから、ここにはある種の復讐の連鎖があるわけで、それをいかにして止めるかって点が問題になっている。でも、この「裁判」が明かしたように、そういう復讐みたいなことはせんでもカタルシスは成就されるし、カタルシスが成就されれば、そうした問題は解消されるんだっていうね。そういう視線があるんだと思う。
それはたしかに理想主義的すぎるとは思う。『幽遊白書』の左京が、「家族には何の問題もないのに、わたしだけがこういう風になった」って言ったけれど、あれの方がリアリティがあるんだよね。要は環境とか何とかに関係なく先天的にそういうヤツはいるんだと。そして、そういうヤツには、贖罪もクソも関係ないだろうと。
そういうヤツがいるのはもう仕方ないことで、そういうヤツにはもう『デスノート』しかないじゃないって考えも分かる。ボクだってそう思うことはある。ただ…こういうこと(『ソロモンの偽証』で言われていたようなこと)を言うことには、それはそれで、なにか意味があるんじゃないか…って気もするんだ。
最近、思うんだけれどさ…1億3000万もの人が居るなかで、ほんの一部の凶悪事件とか、胸糞悪くなる事件とか、そういうのにボクらは引っ張られ過ぎなんじゃないかって。世界はきっと、もっとずっと柔らかくて融通の効くもので、だからたぶん、「人を信じること」ってのが大事になってくるんじゃないか…。
って…かなり話が逸れたけれど、なにかそんなことを考えさせられた。