ジヌよさらば ~かむろば村へ~(2.5) | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
ジヌよさらば ~かむろば村へ~ 
 
2015年日本、121分
 
監督:松尾スズキ
 
主演:松田龍平
 
概要
 人気漫画家いがらしみきおの「かむろば村へ」を基に、お金アレルギーになり東北の寒村に移り住んだ元銀行員が、お金を全く使用しない生活に挑むさまを描くコメディー。劇団「大人計画」を主宰する俳優の松尾スズキ監督と『舟を編む』などの松田龍平が、『恋の門』以来となるタッグを組む。主人公を取り巻くくせ者ぞろいの村人たちには、『夢売るふたり』の阿部サダヲと松たか子、『ヒミズ』などの二階堂ふみ、ベテラン西田敏行ら豪華キャストがそろう。(シネマトゥデイより)
 
感想
 『となりのトトロ』をはじめとして、「田舎へGo」とでも呼ぶべき主題の映画群というのがある。最近ボクが見たなかでも、たとえば『案山子とラケット』や『WOOD JOB!』なんかはその典型的な例だろうし、『銀の匙』をはじめとした農業/酪農系作品もこれに含めても良いかもしれない。
 
 この映画の導入部分も少しそんな感じを与える。今度はどんな「変奏」がなされているのだろう…と、思いきや、これは正直どう見たら良いか分からなかった。
 
1.
 たとえば、漫画やアニメというのは、そこに描かれた場所がその世界の場所そのものであり、その登場人物はその世界の住人でしかあり得ない芸術だ。この映画の原作はコミックであって、コミックの場合はその部分には絶対に矛盾やかい離は生じない。
 
 一方、(監督の松尾スズキさんが主戦場としている)舞台というのは、舞台がその世界そのものではなく、目の前の役者がその演じられた役本人ではあり得ないということが分かりきっている約束事の芸術だ(誰も舞台の上で暮らしている人間はいないし、ドキュメンタリー演劇というものは存在するけれど、それはやはりその当の出来事そのものではあり得ない)。
 
 そこへいくと、映画というものの位置づけは意外と難しいということが分かる。たとえばドキュメンタリー映画にはその当の出来事そのものが映されるように、映画という芸術それ自体には、それがフィクションであるか否かの区別は埋め込まれていない。
 
 ゆえに、映画はフィクションであっても、その当の出来事そのものだということを主張してしまうことができる。どこまで行っても、これはその世界そのものであり、ここに映っている登場人物はどこまでもその世界の人物だとね。そこが舞台との決定的な違いであり、むしろ、そこにこそ映画の強みがあるのかも知れない。
 
 この映画は、その辺がよく分からないんだ。オールキャストの上に、松本幸四郎の娘が「田舎なめんな」と言っている時点で田舎の現実的リアリティなんかどこにもないわけで、その上、過度に演劇的な芝居はこの場所を「田舎」と名指しされた別のどこかへと転移させてしまう。
 
 それはまた、「田舎へGo」というこの作品本来の主題がどこか脇へ吹っ飛んでいってしまうということにもつながっている(たぶん、そもそもそういうことをやりたかったわけじゃないんでしょ、この監督は)。
 
 もちろん、役者が演技するってのは、他の映画だって同じことが言えるわけで、こうした演劇的リアリティの映画というのはいくらでも存在する。ただ、この映画は実際の田舎でロケをしているから、映されている(作り物ではない)風景が現実的リアリティを強く主張してくるわけで、だから奥の背景と手前の演技がかい離しているように見えてしまう*。
 
(*舞台だったら背景も書割で演劇的なものでしかあり得ないから、そうしたかい離は生じえない。逆に漫画/アニメだったら人物も背景もその世界のものでしかあり得ないわけで、やはり、そうしたかい離は生じない)
 
 さらに付け加えるならば、カメラワークもそれに輪をかけている。この映画は不必要にアップが多いんだ。アップが多いということは、役者の顔がアップになるということだから、役者性が前面に出てしまうというか、そういうことがあるわけで、そこもすごく違和感を生じさせているんだな…。要するにさ、松たか子の顔をドアップで映されれば、それは松たか子でしかありないわけさ。どんなに演技の達者な役者であってもね。
 
 むしろハイアングルの引きの画を多めのカメラプランにすれば、この村全体を作りもののように見せながら、かつ役者性を押し下げることが出来るから、もう少し調和の取れた画面になったんじゃないかな…って気がするんだけれど…まあ単にボクがそういう気がしているってだけの話(こういうのの虚しさは、結局、それを証明する機会も力もないってことだよね)。
 
2.
 それと、これ脚本面でも相当にとっ散らかっている。クレジットで原作ものだということを知ってビックリしたんだけれど、話があっちこっちに飛んで、まったく何がやりたいか分からないんだ。分からな過ぎるから、原作はどうなってんのか知りたかったんだけれど、ちょうどKindleでコミック第一巻が(期間限定)無料配信していたら読んでみた。
 
 やっぱり、これ全然ちがうんだよ。あっちこっちからただエピソードをかいつまんでいるし、原作にあったリズムや流れみたいなものが失われている。
 
 たとえば、原作では村長のゲイ疑惑が序盤のキーポイントになっているんだけれど、映画の方ではそれが吹っ飛んでいるから、主人公の発言がすごく唐突に見える。あるいは、二階堂ふみちゃんとか松たか子さんのくだりもそうで、流れを吹っ飛ばしちゃっているから、主人公が単に女好きの野郎に見えるようになってしまっている。
 
 こうして吹っ飛ばした結果生じているのは、ある種の(宮藤官九郎的…というかクドカン自体が松尾スズキ的なわけだけれど)軽さであって、それはおそらく狙い通りなんだろうけれど、吹っ飛ばしてリズムが良くなっているかと言えば、それはそうでもない。
 
 なにより、このとっ散らかった脚本では、主人公の内面みたいなものがほとんど描けていないわけだよね。原作だと主人公が「ジヌよさらば」って言うのは、ある種の自暴自棄みたいなところがあって、そのくせすぐ人に甘えるところがあるから、「他人のために生きる」村長との対比が生きるわけで。
 
 だから、この映画では、途中からむしろ村長の方が主人公みたいに見えちゃうわけだけれど、それは(もちろん脚本自体の流れがそうなっているのもあるんだけれど)、主人公のそういう甘えたところを充分に描き切れておらず(描いていても単なるコメディ要素として回収されてしまっていて)、むしろ最初から良いヤツみたいな感じで、その意味では最後まで大して成長もなく終わるために存在感が薄くなっているからで。
 
 しかも、その部分を描き切れていないから、原作のご飯食べて涙流すシーンやお風呂入って生き返るシーンなんかの説得力も出ないし、なにより「ジヌよさらば」ってタイトルになっている部分も大して掘り下げられないまま終わって、結局、これはいったい何だったんだ…ということになる(そもそもそういうことをやりたかったわけじゃないんでしょ2)。
 
 物語の進行が、「物語自体の内的な力」によって動いているように見えないのも致命的で、だから、それこそ神様(作家/脚本家)が勝手に物語を動かしているように見えてしまうわけで、そうすると、こっちも「勝手にやってろ」と突き放した気持ちになってしまう。三木聡や堤幸彦を彷彿とさせるナンセンスな笑いは、それはそれとして笑えるとしても、「だからなに?」と思えてしまうわけさ…。
 
 クソっ…ボクはイヤなやつだな…。
 
☆☆★(2.5)
物語☆☆★
配役☆☆☆★
演出☆☆☆
映像☆☆★
音楽☆☆☆