「ボク的インターステラーの楽しみかた」その3
―SF的精神―
この映画における「人類」がとる行動について私たちが感じるのは、アメリカにしろイギリスにしろ大国的発想とは相いれないな、ということだ。足るを知る者は富む、といったのは老子だが、彼らは今こそ、この言葉を思い知るべきである。
宇宙旅行はつねに究極のチャレンジだ。多くの人は技術の使い道を地球の範囲に限定してる。技術の進歩は便利な生活のためだと考えてる。でも選ばれた小数の特別な人たちは違う。彼らは人類の限界を超えていこうとする。人類未踏の領域まで。
1.
世の中には2種類の人間がいる。
ひとつは地上的人間で、もうひとつはSF的人間だ。
地上的人間は「社会」の中で生き、その範囲の中で考える。他方、SF的人間はそうじゃない。なぜならば彼らは「社会」の前に「科学」を置くからだ。そういう意味では、両者を「社会的人間」と「科学的人間」と呼んでも良いかもしれない。
たとえば、「少子化問題」という言葉がある。地上的/社会的人間から見れば、たしかにこれは大問題だ。子どもが減れば労働力がなくなって経済活動が停滞するし、高齢化が進み「年金」という構造が立ち行かなくなる。
しかし、SF的/科学的人間にとっては、むしろ深刻なのは「人口増加」の方なのだ。この問題に関して、SF作家アイザック・アシモフ(1920-1992)が述べた言葉がある。
現在、地球の人口は半世紀ごとに倍加している、しかし、控えめに見積もって人口が80年ごとに倍加することにしよう。かりにこの倍加の速度がそのまま続くとすれば、約1500年の間に、つまり西暦3500年にはわれわれは限界に達することになろう。そうなれば、地球上の生物質といえば、ただ人間と、彼らに必要な食料源および有機的な副産物だけということになる。
(中略)だが、それにしても、何でこのちっぽけな地球という惑星にしがみつかねばならないのか。宇宙時代が来ているのだ。科学は凄まじいテンポで進んでいる。外には果てしない宇宙が招いている。もちろんそこには、どんなに大勢の人間でも収容できるだけの場所があり、したがって爆発的人口増加を心配する必要はないのである。
そうかね?
(中略)つまり、現在の人口増加率のままでゆけば、ホモ・サピエンスは、たった9000年のうちに、我慢の限界などをはるかに越えるまでに宇宙を埋め尽くすのだ。
ごらんのとおり、もうゆとりはなく、科学もどうすることもできないのである。人口増加率は減らさねばならない。そうして、これには二つの方法がある――つまり、死亡率を増やすか、出生率を減らすかである。
好きな方を取りたまえ。
(アシモフ『生命と非生命のあいだ』307-310頁)
これこそがSF的人間の発想なのである。社会的人間とSF的人間とでは想定している規模や時間のスパンがまるで違うのだ。
ちなみに、これが書かれたのは1967年、ちょうど約半世紀前のことになる。時代錯誤な意見だと思うだろうか? さて、単純な数字を挙げよう。1967年当時の人口は約30億人。いまの人口は…そう、倍以上の72億人だ。
たとえばボクが、「唯一、例外として良いのは宇宙開発で、これのみは全ての状況を一変させる可能性を秘めている。僕は、この先40年間は耐える時だと思う」と言ったり、「閉鎖された世界で、限られたものを奪い合い、戦い合って、滅ぼし滅ぼされていく。それは、余りにも単純な答えだと思う。宇宙はこんなに広いのに…」と言ったりするのも、ボクがアシモフに…SFに育てられたからだ。
(ボクは彼から多くのことを学んだし、いまでも彼はボクの最良の教師のひとりだ。まあ、ボクは不肖な弟子なんで、彼は宇宙でさえ9000年で満員になると言うけれど、流石にそんな先のところまで責任もたなくて良いよ…と思うわけだ)
他方、副島隆彦や田中芳樹がアポロ11号の月面着陸を捏造だと断じるのは、彼らがあきらかに地上的/社会的人間だからだ…とボクには思える(銀英伝は好きな作品だけれど、あれをSFと思ったことは一度もない)。彼らは「国家」という社会的観点からのみアポロ計画を理解する(その実は単なる反米主義に過ぎないのだけれど)。
『インターステラー』は、そうした種類の社会的人間を嘲笑う。それはもう劇中ではっきり言ってしまってるんだ。
(前田有一や冷泉彰彦がなぜこの映画を低く評価するかなんてあまりにもハッキリしているじゃないか。それは彼らが――まさにこの映画によって嘲笑われているような――典型的社会的人間だからだ)。
(以下、冒頭部分のネタバレあり)
2.
『インターステラー』で描かれている世界は、食糧難によって軍隊がなくなった、ある意味では穏やかな世界。老人は言う、「この世界もそんなに悪くない」と。だけれど停滞しきっている。みなが日々の暮らしに追われ、宇宙開発などという「贅沢」にかまけている余裕はない。人々はみな下を向き、学校の教師は「アポロ計画は捏造だった」と教えている。
廃止される前のNASAのパイロットだった主人公は、そうした教師に呆れ果て、啖呵を切って、子供たちの通う学校から飛び出して行く(SF的人間にとってアポロ計画を捏造呼ばわりされることは、許しがたい冒涜なんだ)。ここで、この映画が目指す方向性が明確に(言葉で)語られるわけだ。
だけれど、そうしたすべては、じつは、それより以前に画面に現れている。
前々回の記事でも触れた、砂をかぶったスペースシャトルの模型が映る冒頭場面。ここでもう明らかに、上述したような停滞した世界観が現れている。
しかし、それよりも遥かに出色なのは、その少し後の場面。オクラが疫病でダメになって、トウモロコシに依存しているという話があった後のことだ。空行くドローン(無人航空機)を見つけた主人公のバンが、それを追いかけてドーンとトウモロコシ畑の中に突っ込んでいく。
その瞬間、ここには、なにかそうしたすべてのものより大事なものがある…(と主人公が考えている)ということが手に取るように伝わってくる。停滞しきった世界の中で、なにかが始まる。そんな予兆がある。
そして、ここで追いかけていくものが、「無人航空機」というテクノロジーの粋を集めたもの(そして空を飛ぶもの)であることで、ここで一気に、(物理的にも技術的にも)上昇の感覚が与えられる。地上の諸々をすべて吹っ飛ばしていくあのSF的上昇の感覚が。
それに応じて、映像的にもクレーンでカメラが上昇して、斜め上からバーンと、トウモロコシ畑を疾走していくバンを映す。この場面はほんとに痺れるんだ。
この何気ない場面こそが、じつはこの映画の中でもっともSF的な瞬間だとボクは思う。ここではSF的なガジェットは何も使われていない。それにも関わらず、この映画の精神…魂が、ほかならぬ「SF」にあるということを叫んでいるんだ。
この「叫び」を聞き取ること。これが今回の「ボク的インターステラーの楽しみかた」になる。
つづく