運命は変えることだってできるんだから。ぼくらはそのためにきたんだ。
『ドラえもん』第一巻より
ためしにドラえもんの「年表」を作ってみればいい。整合性の取れたものとして出来るわけがない。小4(あるいは小5)の夏休みに「あそこに行ってここに行って」って全てが収まりきるわけがないんだ。
ただ、それが「起こらなかった」と理解してしまうとそれも違うわけで。だから『ドラえもん』は「可能性の束」として提示されている物語だとボクは思っていて。
そこでは、ジャイ子の旦那さんになる未来と、しずちゃんの旦那さんになる未来が並列で並んでいる。ドラえもんが来たから、じゃあ、のび太がしずちゃんの旦那さんになる未来に確定したか…って、まあそういう考えもあるだろうけれど。
だけど、むしろ『ドラえもん』が訴えたかったことって、「未来って確定してないんだよ」ってことに尽きるんだとボクは思っていて。だからこそ、『ドラえもん』には最終回がないわけで(だからこそ、藤子F先生は死の間際まで『ドラえもん』を描き続けたわけで)。
だから、どんなに良い未来であろうと、どんなハッピーエンドを迎えようと、どんな感動する物語を紡ごうと、その可能性を収斂させてしまうような作りにしてしまうならば、ボクはこれは『ドラえもん』じゃないと思ってしまう。