アオイホノオ徒然 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「アオイホノオ徒然」

1.
 『アオイホノオ』は、なんか久しぶりに面白いドラマだったな…という気がします。まあ、最近はドラマ自体あまり見ていないんですけど(^_^;)>

 柳楽優弥くんの「怪演」ぶりが話題になってましたが…いやあ、すごかったですね。藤岡弘さんかと。あんな暑苦しい演技を、しかもどこか脱臭して(アニメキャラのようにして)しまう。さすがですよ。

 彼の存在がなければ、このドラマは成立していなかったでしょうし、それから山本美月さんの何とも言えない不思議な雰囲気もかけがえのないものでした。

 庵野さん役の安田顕さんも見事でしたね。「庵野秀明」という名前を聞くと、もう安田さんの顔が思い浮かぶようになってしまいまして(^_^;) 

 ムロくん(ムロツヨシ)をはじめとして、周りのキャストも光ってましたが、あの3人がぴったりとハマったことで、このドラマはうまく転がった気がします。

 福田監督にも拍手。あの人、やっぱり才能あるんですわ。

2.
 さて…内容ですが、ドラマと言っても、原作はマンガ。原作者島本和彦さんの大学時代をモデルにした自伝的な青春群像劇で、のちにガイナックスとなった同級生たちが実名でライバルとして登場してきます。

 庵野さん(エヴァ)、山賀さん(王立宇宙軍)、赤井さん(プリンセスメーカー)…もちろん、それぞれ有名な人たちですし、劇中に出てくるDAICON3オープニングアニメの「伝説」は色んなところで耳にします。

 個人的にも、オタキング岡田斗司夫さん(手塚治虫大先生役で登場してましたな)の著作でそれぞれのパーソナリティに馴染みがあったので、そのデフォルメ具合もなかなか面白かったです。

 庵野さんのウルトラマン・ヲタっぷりとか、濱田岳さん演じる岡田さんのあの…なんて言うんだ…リトルブッダ的な?(笑)感じとか。

 まったく絵が描けないし、アニメのこともまったく知らないけれど、庵野さんとか赤井さんとか才能のある連中を取り巻きにして、「これで一生食いっぱぐれない!」とかのたまうムロくんの山賀さんとかね。

 主人公の焔モユル(島本さん)をはじめとして、庵野さんとか赤井さんのヲタっぷりが半端ないから、山賀さんのダメっぷりが際立つんですよね。

(山賀さんが監督した『王立宇宙軍オネアミスの翼』は名作ですけどね。はじめてこの映画を見た時、「これからのアニメはこういう風になっていくんだろうな」と思ったもんです。まあ…初めて見たの90年代だったんで、その時、すでに結構昔の作品だったんですけど(^_^;))

 そのガイナックスがヲタ道に邁進する感じは、その昔、彼らが制作した『オタクのビデオ』に現れていましたな。

3.
 そう…その「ヲタ道」という話…『アオイホノオ』では、それがふんだんに盛り込まれていました。アムロの古谷徹さんのナレーションとか、矢野健太郎さんがするシャア言動なんてのは初級編ですよね。

 それに、あのオープニング。あれは、ドラマでありながら、アニヲタにはグッとくるような作りをしていましたよね。それはボクも分かるんです。ただ…元ネタがどれかということまでは、なかなか分からない。金田作画が入ってるな…くらいは分かったんですけどね。

 その差ですよ。あれの元ネタが分かるか分からないかっていう…。そのレベルで「会話」しているわけですよね。ヲタだったらそれくらい分かれよという。なんと言うかな…ヲタへの通行証というか。

 そして、その「分かる」という文脈の上に、「評価」というのが乗ってくる。焔モユルは言いますよね。「あだち充を分かってあげられるのは自分だけなんだ」って。そして「あだち充を分かる」同級生を仲間として認めるわけですよ。

 もちろん、今だったらあだち充さんなんて「巨匠」ですから分かって当たり前なんですけど、その巨匠の芽を見出すということが…なんと言うかな…ヲタの証明というかね。ここには、ある種の目利きのような側面があるわけです。

 ただ、この目利きがヲタ同士の間でも一致しない時があるってのがミソです。庵野さんたちと焔モユルが、店頭でアニメのオープニング集を見ていた場面。彼らはマジンガーZのオープニングを楽しみます。ところが、庵野さんや赤井さんが「グレートやゲッターも良いよね」と言い始める。

 焔モユルには、それが良いと思えないから、彼らは何でも楽しめるんだな…と思えてしまう。「こいつらはダメだ…こいつらはただのアニメファンだ。描くために研究者として見ているオレとは違う」。モユルのセリフです。

 それから、大友克洋さんを巡る話もありましたよね。友だちが「流行っている」と言って、大友さんのマンガを持ってくる。ところが、焔モユルは「丁寧に描き過ぎだ」とか言って評価しない。そして、「アニメ化なんて不可能だ」と断言する。

 もちろん、それは間違いだったわけで、大友さんの『AKIRA』は日本アニメ史上に残る作品となるわけです。ボクは「アニメ様」小黒さんが全然AKIRAを評価していないことを思い出したりもしました(そういや、アニメ様、ドラマ版『アオイホノオ』褒めてましたな)。

4.
 評価の基準があるのかないのか…ということが、ボクにはいつも気になるんですよ。たとえば、芸術。「芸術を理解する人」なんて言葉がある。これはもちろん、文脈とか歴史とかそういうものを押さえているって意味もありますけれど、それだけじゃないですよね。

 「芸術を理解する人が見れば、ある程度、評価というのは一致する」…という幻想というか信念というか…なんだろうな、そういう考えがある。これは、ボクの先生も言っていたことですけれどね(まあ、今から思うと、大学一年生用に単純化して話していた気もしますが)。

 たとえば、村上隆さんが「マティスのような天才にはなれないがピカソやウォーホール程度の芸術家の見た風景ならわかる」と言った時、これはある種の権威付けとして機能しています。その村上さんが、金田さんとかDAICON3を評価しているのも、それに近いニュアンスがあるでしょう。

 あるひとつの軸を提示して「分かる人は分かりますよね」っていうね。まあ、半分「え?分かんないの?」っていう脅迫みたいなもんですが(^_^;)

 ヲタ文化って、高度に文脈に依存しているんで、そうした考えを呼び込みやすいと思うんです。色々な文脈を読み解いた方がエライというか。だから権威化しやすいというかね。岡田さんの「オタキング」なんて、まさにその最たるものでしょうし。

 その一方で、たとえばシャガールが「ピカソを認めなかった」という有名な話がある。ここには、どっちが上というのとは別に、方向性の違いのようなものを見て取ることもできるでしょう。シャガールの基準は、ピカソには適用できないものだったと言うこともできるかも知れません。

 ボクが『アオイホノオ』を受け入れやすかったのは、一方ではヲタ文化に依拠しつつ、この感覚がうまく表されていたからなんですよね。たとえば、ある編集者Aは焔モユルの原稿を「感性が合わない」と言って捨てる。しかし別の編集者Bが捨てられた彼の原稿を拾い上げる…。

 ボク自身は、もう少し文脈を分からんとな~…とは思うんですよ。だから勉強中なわけですけれど。道はまだまだ遠い…。なんせ、『BSアニメ夜話』でオタキング岡田さんをはじめて見たとき、「あ…ゴダイゴの人、アニメ詳しいんだ…」と思っていたというボクなんで…(^_^;)>