ジョン・バージャー『イメージ』p.12
イメージとは作り直された、あるいは再生産された視覚だ。
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イメージは最初、何か不在のものを呼びだそうとする目的からつくられた。そしてしだいにイメージが、それがあらわすものを永続させうることが明らかになり、いつのまにかある物や人がどのように見えたかを、またその対象が他の人の眼にどのように映っていたのかを、示すようになった。その後においても、イメージ製作者の特定の光景は記録の一部として認識され、イメージはXがどのようにYを見たかの代用となった。これは歴史に対する意識の増大をともなった、個人性のめざめの結果でもある。
ジャン=リュック・ナンシー「イメージ - 区別されたもの」
イメージとは聖なるものである…聖なるものは、分離されたもの、距離をおかれたもの、切り取られたものを意味する。
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区別されたものは遠いところにある。それは近いものの対極にある。近くないものとは、二つの仕方で距てられたものである。すなわち第一に接触から、第二に同一性から。このような二つの仕方で、区別されたものは区別されている。それは触れることなく、また類似もしていない。それが実は、イメージというものなのである。つまりイメージは、切り離され、外に、眼前に置かれていなければならない(したがって、イメージはその隠された面と不可分であり、この背面はイメージから引き剥がされることはない。絵画の薄暗い面、その表面の下地、その基準格子、あるいは基底材)。しかしまた、イメージは物からも異なっていなければならない。イメージは、物ではないような物である。本質的に、それは物から自らを区別している。
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イメージは、私のまったき内奥に――視覚、聴覚、あるいは言葉の意味そのものによって――到来する内奥を、私の顔面に向かって投げつける。実際、イメージは単に視覚的なのではない。それは同時に音楽的、詩的であり、さらには触覚的、喚覚的、味覚的、運動感覚的、等々でもある。これらの差異化する語彙は十分ではなく、また、ここではそれを分析する余裕もない。確実なのは、視覚的イメージが、モデルとしての役割を果たしているということである。
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明晰にして判明、イメージは一つの明白なものである。それは区別されたものの明白さ、その区別そのものである。この明白さがあるところにのみ、イメージがある。さもなければ、そこにあるのは装飾あるいは挿画、つまりある意義を補助するだけのものである。イメージは区別されたものの不可視の現前性、あるいはその現前性の区別に触れなければならない。
区別されたものが不可視なのは(聖なるものはつねに不可視であった)、それが諸対象の領域、その知覚とその使用の領域に属さず、諸力の領域、その触発と伝達の領域に属するからである。イメージは不可視なものの明白さである。それは不可視なものを対象として可視化するのではなく、それを知ることへと到達するのである。明白さ=明証性の知は学問知ではなく、全体を全体として知ることである。一撃にして(その一撃とはイメージの一撃なのだが)、イメージは意味の全体を、あるいは(こう言ってよければ)一つの真理を明らかにする。個々のイメージは、判明なる意味の――すなわち意味作用の秩序に繋ぎ止められない意味の――全体における、それぞれ特異なヴァリエーションである。