エヴァと48 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「エヴァと48」

ネタバレ注意

 エヴァの話が出たとこで、ちと考えていたことがあるので、「48とエヴァは似てるんじゃないか」って話をしてみましょうか(ちょうど、なっきぃもアスカのものまねをしていましたしね)。

1.アスカの拒絶
 (宮台さんや東さんのような)一部の批評家から、48のファンは「そんなことしてないで実際の恋愛をしろ」と叱咤されることがあります。まあ、余計なお世話だって話ですが…ドルヲタであるということは、実際は(疑似恋愛で片づけられるような)そんな甘っちょろいもんじゃありません。

 アイドルにガチ恋系でハマった事のない人にはピンとこんでしょうが、ひとりのアイドルとその「ガチ恋系ファン」の物語をひとつの物語として見ると、最終的にこれはもう決定的に「拒絶の物語」になるんです。
(48≠アイドルって話は、ここでは取り敢えずペンディング)

 たとえば、典型的な48の物語は「私はもう辞めます。あとを追わないでください」という形で終わりを迎えます。それまでどれだけ応援していても、どれだけ心が通っているように思えても、それは変わりません(もちろん、芸能界に残ったり色々なパターンはありますけどね)。

 この決定的な拒絶が、まさにエヴァのラストなんですよね。 

 あの劇場版の最後、シンジとアスカふたりだけの世界になって、「アダムとイヴ」かと思いきや、アスカは「きもちわる」っていう…あれはもう夢も希望もない。決定的な拒絶として読み得るものです。物語の途中ではシンクロしたように思える瞬間もあるけれど、最後には決定的な拒絶を迎える。

 しかも、エヴァのTV版ラストではシンジくんが「おめでとう」と祝福されて終わるわけですが、48版のラストでは、拒絶されたファンの方が「おめでとう」と言わなきゃならないので、ある意味ではエヴァよりも過酷だという…(^_^;)

 それを乗り越えてなおドルヲタである勇者たちにこそ、ボクはむしろ「おめでとう」って言いたいくらいですよ←なんのこっちゃ

 他ならぬボク自身が、かつてはアイドルのガチ恋系ファンでしたから。それも飯田さんっていう…分かる人には分かる伝説的な…まあ、ボクは早めに撤収したので、あの伝説のバスツアー*に参加した人たち…伝説の勇者たちには、その足元にすら到底およびませんけどね。
(*ツアーの前日に妊娠&結婚が発表されて、ヲタはバスの車内で涙ながらに本人に「おめでとう」と言ったという世にも恐ろしい話)

 でも、彼らの気持ちは少しだけ分かるんです。ガチ恋系ではなかったとは言え、48の推しもあのみぃ(峯岸みなみ)だったですしね…(人を見る目ないんかな(-_-;) )やつら平気でウソつきますし、平気で人を裏切るんですよ←アイドル不信(笑)
(あ…何度も書いてますけど、ボクはもう「許してます」。そういう意味では、男って…というよりボク個人がですが…バカなんですな(;一_一))

 まあいまは、それを分かった上で割り切って楽しんでるとは言え、もちろん、それだけじゃあもたないわけなんです。エヴァにはもうひとりのキーパーソンが居ますよね。そう…あの子です。

 綾波レイというのは、究極の自己犠牲キャラです。「あなたのために私は死ねる」子なんですよね、あの子は。しかも、それが(いかなる強制でもなく)自らの望みだっていう。もう奇跡みたいな存在。そんなの母親しか居ないよ…って、母親なんですけどね、実際(笑)

 ただ、自己犠牲の子は…ホントに自己犠牲しちゃうんで、最後まで一緒に居られないという…その辺が悲劇的なところではあるんですが…それはともかく。

 アイドルのなかにホントにそんな子がいるか…というのは(物語を最後まで見ないと)「分からん」としか言いようがないのですが、でも、アイドルというのは多かれ少なかれそういう要素を持ち合わせているんですよね。

 人々の願いを自らの内に反映させて、しかもそれ自体が自らの願いだっていうね…。

 だから、すべてのアイドルは、多かれ少なかれアスカ的な要素とレイ的な要素を、その内に潜在的に持ち合わせている筈なんです。最終的にどちらに転ぶか…というのは、まあほとんど99.99%アスカの方に転ぶわけですけれどね。

 (純粋にファンのためだけに生きたアイドルなんて居るんだろうか? だれかひとりの「願い」を叶えることが他の人の「願い」を閉ざしてしまうことになるアイドルという職業において、自己犠牲とはつまり「永遠にアイドルであり続けること」しかありえないわけだけれど、果たしてそんなことが可能なのだろうか?)。

 ただ、その0.01%のレイというのが、アイドルという文化にとって決定的に重要だとボクには思えるのです。要はエヴァ受容におけるパラレルワールドの「学園エヴァ」ですよ。ああいう暖かみのある別の可能性がなくちゃ、物語としてあまりにも救いがなくて、文化として成り立たない…という意味でね。

 ドルヲタを物語の消費者と考えれば、彼ら/僕らは結局のところ、次の物語に移っていくだけです。次から次へとゲームを買い換えていくようにね。ただ、そのすべてが「アスカ・エンド」だとあらかじめ分かってしまっていたら、そのうち買いたくなくなる筈でしょう? でも、(ボクがいまだに残っているように)必ずしもそうはなっていない。それはなぜかという話です。

 これを岡田斗司夫さんのように「世界と趣向」と考えても良いわけですけれどね。つまり、それぞれの物語の「設定や結末」(世界)はいつも同じだけれど、それぞれに「趣向」が違う、ヲタはその趣向の違いを楽しんでいるんだっていうね。ただボクは、別の「世界」の可能性を0.01%でも常に感じるというのが、じつはとても重要なことなのじゃないか、と思っているわけですよ。

 批評家たちが何を言おうが、「学園エヴァ」の存在がエヴァという文化の命脈を保つために決定的な役割を果たしてきたようにね。


2.社会現象
 もうちょっと引いた視点で見ても、エヴァと48の類似性は見出せます。

 エヴァは、基本的にはヲタ向けに作られたアニメです。ガイナックスという制作スタジオがもともとそういうスタジオですからね。特に前半は非常にそうした気配が濃厚です。分かる人には分かるっていう。

 でも、それを後半…とくにTV版最終2話で徹底的に否定してしまった。あれはもう、ヲタク的な「読み」を一切受け入れない。その拠って立つアニメという存在すら疑うような作りになっている。庵野さん自体が、あの頃になると、もうヲタという存在に懐疑的になってしまっているんですよね(だから彼は実写に行くわけですけど)。

 で、ヲタを否定したことで何が起こったかというと、「社会現象」なるものになってしまったわけですよ。社会学から哲学から心理学から、気鋭の論者たちがこぞってエヴァを論じるような事態になった。

 でもその一方で、エヴァは、ヲタ向けの文化としては、いったんほとんど死に体になってしまいます。シンジがアスカに拒絶されたように、ヲタたちは庵野さんに拒絶され、もうそこに居られなくなってしまった。

 ただ、例(レイ)の0.01%の部分、「学園エヴァ」の部分があったから、ヲタたちが支えて、エヴァはなんとか命脈を保てていました(…のではないかと。ボクもエヴァ関連のゲーム買ったりしましたしね)。

 「社会現象」なんてものは一過性のものです。大衆は飽きっぽいですからまた次のものに移っていくだけなんで、何年かすれば忘れられてしまうのです。

 で、結局、庵野さんはまたエヴァに戻ってきました。「新エヴァ」についてよく言われるのが、「旧エヴァ」のような「社会現象」になっていないということですよね。当時、散々エヴァを持ち上げた論者たちの多くは、この点をもって新エヴァを「物足りない」と評します。その点にはボクも同意します。

 ただ、それは庵野さんが分かってやっていることだと思うのです。

 冒頭でもチラッと触れたのですが、なっきぃ(鎌田菜月)がSKE劇場でアスカのものまねをしたんです。その時にとても印象的だったことがあって、彼女はとても自然に「式波・アスカ・ラングレーのモノマネ」と言ったんですよね。なっきぃにとっては、「式波」と言う方が「惣流」と言うよりも、よほど自然なんでしょう。

 なっきぃというのは、二次元にやたら詳しくて「腐女子」って周りから言われている子なんですが、まあ言ってみれば、最新版のヲタです。こっちサイドの人間(笑)

 そんななっきぃが自然に「式波」と言うのを聞いて、ボクは何となく、庵野さんがやろうとしていることが見えた気がしたのです。庵野さんがやっていることって、そうした、いまの子たち…いまのヲタたちに向けてもういちどエヴァをやることなんだろうなって。だって、加持君とシンジのBL要素なんて、もとは無かったですからね。

 しかも、(これはまだ続いているのでハッキリは言えないですけど)今度は肯定しようとしているんじゃないのかな…いや、なんとなくなんですけどね。だって、彼が主演を務めた『風立ちぬ』は、まさにそういう話だったでしょう…って理屈になってないんですけど。

 で、48ですよ。48も、もとは完全にヲタに向けて作られたものでした。分かる人だけ分かりゃ良いっていう。だけど、総選挙だの何だのやっている内に、それがいつしか「社会現象」になってしまった。そしてここにも(主に当時のエヴァ・ブームに乗れなかった世代の)気鋭の論者たちがこぞって集まってきた。

 まあ、エヴァとは時系列が逆なんですけどね。エヴァが、ヲタのものではなくなって「社会現象」になったのとは逆に、48は「社会現象」になってしまったことで、ヲタのものではなくなったのです。

 そして、みぃの一件によって引き出された、秋元さんの「恋愛禁止なんて言ってないよ」という一言で完全に拒絶されてしまうわけです。あれは、ドルヲタからしてみれば「君たちのために48があるわけじゃないよ」という言葉ですよ。

 それでも例の0.01%が…って話は省略。で、現代のドルヲタたちに向けてもういちど48をやろうとしているのが、チーム8なのかなと。あれは言ってみれば新エヴァならぬ新48でしょう。まあ、エヴァと違って、48の場合は旧版も同時に進行していますから、なお複雑ですけどね。

 さてボクは…