アニメ徒然:重力をめぐる想像力3 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「宇宙から天空へ」

1.
 ガンダム的なものの後に来るのは「新世紀エヴァンゲリオン」(1995-1996)です。あるいはガイナックス的なものと言っても良いのかも知れんですが。

 …気付いたんだけど、アニメってよりSFアニメの話になってるな(^_^;)>

 それはともかく…

 ガイナックスの『王立宇宙軍:オネアミスの翼』(1987)では、宇宙というのは象徴的/記号的な存在になっています。そこで何かがあるというよりも、そこに行くこと自体に意味があるっていう。「トップをねらえ」(1988)では、最終的にこれが逆になって、地球が象徴的な存在になるんですよね。言ってみれば、両者は「おいでなさい⇔おかえりなさい」という関係にある。

 「エヴァ」に至って、この記号化は極限まで押し進められます。「宇宙」はもはや住んだり探索されたりされる領域ではなくなり、「天空」…あるいは「天蓋」とでも言うべきものになるのです。つまり、そこから天使=使徒が落ちてくるだけの領域になって、主人公たちは、ただ受動的にそれを迎え撃つだけっていう。

 これは、おそらくウルトラマン的な世界観が影響しているんだと思います。ウルトラマンってひたすら怪獣が(地中とか海底の場合もありますが)宇宙から降ってくる話ですよね。それに、庵野さんの初監督作って、自主制作の「帰ってきたウルトラマン」(1983)らしいですし(^_^;)

 『王立宇宙軍』も「エヴァ」も、重力って観点からすると、上昇か下降のいずれかに特化されています。言いかえれば、ロケット的(上昇)なものか天使的(下降)なもの。エヴァはそういう意味では、明らかに下降ですよね。そして、その下降が、上にあるものの存在(天空)を同時に感じさせて、それが世界に広がりを生んでいる。

2.
 『王立宇宙軍』のシロツグは、「(宇宙は)あっち?」というマナの問いに、「あっちだけどもこっち、そっちもどっちもだな」と答えます。宇宙がこのどこだかよく分からない「どこか」になってしまう、というのが次の世代の想像力の鍵をにぎっています。

 どこからともなく女の子が降ってくる…というのは、90年代から10年代にかけて、典型的に見られたアニメの構造でした。あれは、「うる星やつら」(原作1978/アニメ1981)的なものと、「天空の城ラピュタ」(1986)的なもの、そして「エヴァ」的なものの想像力が混ぜ合わさって出来たものだとボクには思えます。

 その「どこからともなく」の「どこか」が、不可能性の時代を象徴するように「天空」という不可知なものになっている…というのが、エヴァ的な想像力であり、またセカイ系の想像力でもあるでしょう。

 『ほしのこえ』(2002)では、その不可知の領域と日常性の断絶と交感がテーマになっています。あれはもう上昇も下降もなにもなくて、ただただ、永遠に縮まらない無限の距離だけの問題になっているわけです。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」(原作2003/アニメ2006)になると、「宇宙人」も「未来人」も、その設定自体が記号になってしまっていて、背後に背負っている筈のもの(宇宙や未来)がすべて不可知の領域になっている。あれは言ってみれば、不可知の領域に囲まれた日常性です。

 この2つに限らず、こうしたセカイ系的な世界観を持つアニメにおいて、不可能性=不可知の領域を象徴する天空的なものが、地上世界では女の子の形をとるっていうのがね…ま、そういうことですよ。女の子は分からんっていう(笑)

3.
 そう考えると、『サカサマのパテマ』(2013)の「空へ落ちる」想像力がどんなものか…というのが少し分かってくると思うのです。同時期に『アップサイドダウン』(2012)という実写映画もあって、それも逆さまの話なんですが、興味深いのは、どちらの映画も男の子と女の子がそれぞれの世界を代表しているということです。

 先述したように、典型的なセカイ系アニメでは、天空が女の子を表し、地上は男の子を表します。そして「天空」は不可知の領域を表していたわけですが、その関係を反転してしまうわけですよね。反転…というよりも、相対化してしまう。

 天空=地上になって、地上=天空になってしまう。「男の子」と「女の子」と言ったって、そのそれぞれの視点から見れば同じだよね(天空から見れば地上も天空に見えるし、地上から見れば天空は天空に見える)っていう…←ホントか?

 だから、2人が抱き合うことでそのそれぞれの重力/原理がリセットされて、「空へ落ちる」…

 …って、しまった…性差でアニメを語る批評はボクはキライな筈なのに、なぜか最終的にそうなってしまった…orz