「人間が聖なるものを知るのは、それがみずから顕れるからであり、しかも俗なるものとは全く違った何かであると判るからである」
―ミルチャ・エリアーデ―
1.
48はアイドルグループではないとボクは思います。と言うよりも、より正確に言えば、48の原理とアイドルの原理が必ずしも一致するとは限らないと思うのです。
アイドルという存在は、「アイドルとはこういうものでしかありえない」というそれ自体の原理にしたがって規定されます。それは本来、時代によって左右されるものではありえません(その原理がなにかというのは、また日をあらためてきちんと書くつもりです)。
したがって、「48が何でもあり」になったからと言って、それは「アイドル自体が何でもあり」になったということを意味するものではありません。それは単に、48とアイドルが分離されただけであって、平たく言えば、48内に「アイドル」と「そうでない子」がいるだけのことに過ぎないのです。
それはどのグループであっても同じです。「アイドル」と名乗っていることそれ自体がミスリードなのであって、「アイドルを名乗ること」と「アイドルであること」は本来はイコールではありえないのです。
2.
そのことを見誤ると、「アイドル」は「芸術」と同じ道を辿ることになるのだとボクは思います。100年前、ひとりのバカが「これも芸術だ」と叫んだことで、(そしてそれが受け入れられたことで)「芸術」は何でもありになってしまいました。
そして、何でもありになった、というまさにそのことによって、「芸術」はその魂を失い、死に絶えてしまったのです(「現代芸術」の展覧会なんざ、一部の愛好家以外は誰も訪れないでしょう?)。
しかしそれは、「美術館システム」と「芸術」とを混同したことによって起きたことでした。「芸術」というものを、「それ自体の原理」によって規定するのではなく、「美術館/展覧会で展示された」という「場の原理」によって規定してしまった。
でも、本来、「芸術」と「美術館」とは何の関係もありません。美術館に置かれたからといって、「それ」が本来の意味での「芸術」になりえる筈がなかったのです。それを「芸術」だと言ってしまったから全てがおかしくなった。
それと同じように、「48が何でもあり」になったからと言って、それは「アイドル」(という概念)とは何の関係もありません。そうでなくてはならない。
3.
「こうしたものしか認めない」という排他の原則は膨大なエネルギーを生み出すわけですが、「何でもあり」になってしまった48においては、そのエネルギーを活かすことはもう出来ないでしょう。
それでも、「48は何でもあり」で構わないですよ、ボクはもう。
たしかに、アヴァンギャルドというのは、その目新しさが人々の耳目を引き、いつの時代においても受けが良いものです。たとえその先がデッド・エンドだと分かっていてもね(だからこそ、100年前のバカ――マルセル・デュシャン――同様、指原莉乃や松村香織*も受けが良いわけでしょう? ボクだってキライじゃないですしね)。
*(こうやって書くと、この記事はなにかその2人に含むところがあって書かれたように見えますが、別にそういうわけではないのです。ただ名前を出すのに好都合だっただけでね(^_^;))
それに、見知らぬ他人のために生きている人間は居ません。それは彼女たちだって例外じゃないでしょう。時計の針は巻き戻せない。昇る朝日を止めることは――沈む夕日を止めることは――誰にもできないでしょう。
ただボクは、「48がそれで死ぬのは勝手だけれど、それにアイドル(という概念)を巻き込まないでくれ」と思っているだけなのです(もちろん、グループ内にまだ「アイドル」の信奉者がいて、その子たちが自らが「アイドルである」ことを望むのは自由ですし、ボクはそれを歓迎すらしますけどね)。
ボクがなぜこういうことを言うか、といえば、それはやっぱり、ボクがまだ「アイドル」というものを信じているからですし、それを守りたいと思っているからですよ。失われるべきではないものがあると思うのです。あらゆるものが平坦化された現代でもなお、神社がそこにあって、そこに古くからの緑が根付いているようにね。