劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語 | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』

監督:宮本幸裕

主演:悠木碧

2013年日本、116分。

概要
 多彩なメディアミックスも話題の人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版第3弾。テレビシリーズをベースとした前2作のアフターストーリーとなる完全新作で、鹿目まどかが魔法少女たちを過酷な運命の連鎖から解き放った後、なおも戦闘を継続する魔法少女暁美ほむらたちの姿を描く。スタッフには総監督の新房昭之をはじめ、テレビシリーズを手掛けたクリエイター陣が集結。かれんなキャラクターに似つかわしくないダークな世界観や、深淵でスリリングなストーリーに魅了される。(シネマトゥデイより)

感想

問題圏…
 この映画の問題圏は、あきらかに『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の友引町から、『エヴァ』のパラレルワールドを経て、『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイト~『涼宮ハルヒの消失』へと至る問題圏の延長上にあります。

 そこに盛り込まれているパラメータは違うけれど、問題設定と式は同じものを用いている…という感じですかね。「ループ」という問題を遡れば、古典的な「シーシュポスの神話」に見られる不条理を引き継ぐものですが、これらのアニメ作品群では、むしろ(ドラえもんやサザエさんのような延々と繰り返される)居心地の良いノスタルジアからいかに離脱するか、ということが問題になっているように思えます。

 押井さんが友引町の問題圏をアニメに引き込んでから30年以上が経っています。90年代(エヴァ)、2000年代(ハルヒ)、2010年代(まどか☆マギカ)、それぞれの解答がある…ということには、それなりに意味があることだとは思うのです。ただ…どうでしょう。この「まど☆マギ」劇場版[新編]が、本当にいまの時代を映し出すアクチュアルなものになったか…と聞かれれば、ボクは少し疑問なんですよね。

 TVシリーズ(&劇場版[前後編])は別にあれはあれで良かったと思うのです。物語そのものに力がありましたし、そういう「物語」として消費すれば良いだけでしたからね。ただ、あえて劇場版[新編]を作り、もう一度説明し直す。それもわざわざ友引町の延長線上にあることを明確化させてね。そこのところの必然性がよく分からんかったのです。

 たしかに、もともと「まど☆マギ」はTVシリーズからすでにその問題圏にありましたが、わざわざこの映画でそうすることの内的動機が、ボクには感じられなかったのです。それは果たして、物語そのものの力から生まれてきた物語だったろうか(叛逆…というのは、むしろ、制作者の側からの物語に対する叛逆ではなかったのか)。

 たとえば、同じ「ループ」という問題圏を扱っていた『オール・ユー・ニード・イズ・キル』をハリウッドはあれだけあっけらかんと扱っていましたし、日本においても(「まど☆マギ」と同じニトロプラスが関わった)『STEINS;GATE』はゲーム的要素としてそれを処理していました。ですから、そういう扱いもあったはずなのです。

 だけど、「まど☆マギ」劇場版[新編]はあえて友引町に挑んだ。ボクはそれは制作者のチャレンジだったと思うのです。そして、その結果がどうだったか…

 「式」そのものを書き換えるというのは、すでに「ハルヒ」がやっていますよね。それ以外の違いは結局、パラメータの違いに過ぎないようにボクには思えます。「ハルヒ」の達成をオーバーラップするなにものかがここにあったか…と言われればボクにはそうは思えません。わざわざ友引町に寄せたことで、それが明らかになってしまった気がするのです。

 (『まど☆マギ』はそれ自体で成立していたのに、その軸で測られるようになってしまったとも言えるかも知れません)

映像表現…
 ボクの周り(というのは芸術系の学生)でもシャフトを評価する声は多く聞きます。シャフトの表現は(ボクも好きですし)たしかに魅力的です。

 この映画の大半を占める「結界」を担当した劇団イヌカレーの映像センスも感じます。だけど、こうした「アヴァンギャルド」表現も(小黒祐一郎さんも触れていましたが)『哀しみのベラドンナ』で山本暎一さんがすでにやっていることですよね(異なる素材を用いることによる違和感という点でも、『千夜一夜物語』ですでにやっていますし)。
[追記:表現そのものはむしろ『ガリバーの宇宙旅行』に近いかな]

 もちろん、(ボクはパクリと言いたいわけじゃなく)シャフトや劇団イヌカレーが自らの実践のなかでこうした表現を発達させてきたことも分かるのです(直接的にはむしろ、イヌカレーの白石さんも参加した『マインド・ゲーム』からの影響でしょう)。たしかに、「まど☆マギ」の「結界」の表現はアニメにおいては「アヴァンギャルド」ではあるのです。だけど、はっきり言ってしまえば、「アヴァンギャルド」という言葉が与える印象と同じくらい古い。

 だから、結局、この映画は、「萌え」という要素を除けば、その問題圏もその表現も、1970年代~1980年代に作られたとしても不思議ではないよね…と感じてしまうのです。それを萌えキャラの魔法少女とくっつけたところが新味なだけであって。その部分を除いたら、2010年代において、こういう作品でなければならなかった必然性はあるのか…と言ったら、よく分からない。

 たしかに、映像にセンスは感じます。だけど、表現としてはこれは(『哀しみのベラドンナ』がそうであったように)デッド・エンドなのではないでしょうか。「センス」に全面的に依拠している限り、これ以上、なにか積み重ねられるとは思えない。

(もちろん、作品の一部としてそういう表現を使うことはまったく否定しません。ただ、こういう絵はパースを気にしなくても破綻しないので、作り手の技量を気にしなくても済むんですよね。それをこれだけ大々的に用いるということは、あまり人出をかけられない…という制作上の都合も透けて見えてしまいます)

 歴史はあとから作られますから、その後の作品制作に影響を与えたものが、アニメ史上において傑出した作品と見なされます。『ビューティフル・ドリーマー』や『エヴァ』はまさにそうした作品でした。それをオーバーラップするだけの何かが、この劇場版[新編]から感じられたか…と言えば、ボクには疑問です(その点では物語シリーズの方が可能性を感じます)。

 現代の若者が楽しんでいるものを、過去のものを持ち出してきて批判するというのは、あまり建設的なことではありません。もちろん、こういう作品があることはそれはそれでいいのです。ある限定を設けた限りにおいて、これは優れたエンターテイメントです(それは別にエンターテイメントという言葉に差別的な意味を込めているわけではなく)。

 しかしながら、これが時代を代表する作品かと問われれば、ボクは否と答えるでしょう。

☆☆☆★(3.5)