ゴジラ(4.5) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『ゴジラ』
Godzilla
 
2014年アメリカ、123分
 
監督:ギャレス・エドワーズ
 
主演:アーロン・テイラー=ジョンソン
 
概要
 怪獣映画の傑作として映画史に名を残す『ゴジラ』を、ハリウッドが再リメイクした超大作。突如として出現した怪獣ゴジラが引き起こすパニックと、ゴジラの討伐に挑む人類の姿を壮大なスケールで活写する。メガホンを取るのは、『モンスターズ/地球外生命体』のギャレス・エドワーズ。キャストには『キック・アス』シリーズなどのアーロン・テイラー=ジョンソン、『ラスト サムライ』などの渡辺謙ら実力派が結集。ゴジラの暴れぶりもさることながら、凶悪度の増したデザインに息をのむ。(シネマトゥデイより)
 
感想
 
1.敗北を抱きしめて
 
 ここ最近では見たことがないような人の群れ。劇場の席がほとんど埋まっている。ボクはいつも通り前から3列目…というわけにはいかなくて、前から2列目の席になった。
 
 冒頭に出る東宝のロゴ…。ガッデム…とカタカナ英語が頭をよぎる。ボクはこの映画を観に来る前に、ゴジラシリーズ全作を、もういちど見返していた。日本の「特撮」は、いったいどこへ行っちまったんだ。
 
 思えば、日本には、円谷英二は出ても、ジョージ・ルーカスは出なかった。
 
 ゴジラ・シリーズをはじめとして数々の特撮映画を手がけた中野昭慶さんは、『スター・ウォーズ』が「退屈だった」と言う。だけど、ルーカスが『スター・ウォーズ』のために作ったILMはその後、ハリウッドを…そして世界を制圧していった。
 
 映画史家のTurnockに言わせれば、いまやILMの美学が映画の世界を支配しており、したがって、ボクらの目には、ILM的な映像こそが自然なものに見えてしまうのだ。
 
 ボクラハマタマケタンダ。
 
 彼らはCGを導入するのも早かった。彼らが手がけた「新スター・ウォーズ」シリーズは、実写映画にCGを大々的に用いるというエポック・メイキング的な作品だった。
 
 それはアニメでも同じで。PIXARがもともと、ルーカスフィルムの下で、グラフィック用コンピュータを制作していた会社だった…ということは、あまり知られていないエピソードだ(それを買い取って独立させたのがスティーブ・ジョブズだってこともね)。
 
 『攻殻機動隊』で巨匠なるものの仲間入りを果たした押井守さんは、『スター・ウォーズ』を(新旧含めて)ケチョンケチョンにけなしていた。「映画としてはまるでお話にならない」と扱き下ろした彼はいま、世界のほとんど誰からも見向きもされない特撮映画を撮っている。
 
 ボクらはハリウッドに負けたんだ。そして、『ゴジラ』さえも向こうに持っていかれてしまった。日本の『ゴジラ』が2000年代に息絶えたのとは裏腹に、2014年にリブートされたこのハリウッド版『Godzilla』(2014)は世界的な大ヒット作となっている。
 
 「ただの爬虫類映画だ」とバカにしていた『Godzilla』(1998)を作ったハリウッドに、ボクらは負けたんだ(今回の映画が1998版と繋がりがあるわけではないし、それらに直接ルーカスが絡んでいるわけじでもないけれどね)。
 
 まずはそこからはじめよう。
 
 
2.「ゴジラ≠Godzilla」
 
 日本の誇るゴジラ・シリーズと言っても、すべての映画が素晴らしい出来であるわけではない。むしろ逆だ。素晴らしい出来である方が珍しい。今から見ると、ほとんどキワモノのような作品だってある(ハリウッド版ゴジラを見て、「こんなのはゴジラじゃない」と言っている人は、そうした作品をどう考えるのだろう)。
 
 60年代のゴジラはおちゃらけ過ぎているし、90年代のゴジラは、あの時代にふさわしく、深刻ぶっている割りに妙に軽薄だ。2000年代に至ると、軽薄を通り越して、ただのパータリになってしまう。それでも、それぞれの時代の見方に合わせれば、それなりに楽しめる。ゴジラはそんなシリーズだった(ボク自身はやはり、自分が生まれ育った90年代ゴジラが好きだったりする)。
 
 もちろん、そのなかでも煌めきはあった。やはり初代『ゴジラ』(1954)は特別な作品だけれど、それだけが傑作だったとは言いたくない。『ゴジラ対ヘドラ』(1971)は秀作だったし、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)は、ボクがもっとも好きな「ゴジラ」だ。
 
 でも、その両作の監督(坂野義光、金子修介)は、それぞれ、その1本しか『ゴジラ』を撮らなかった。ひとりは、「ゴジラに空を飛ばした」という理由で、もうひとりは「キングギドラを正義の味方にしたあげく、弱っちい怪獣にした」という理由…かどうかは定かじゃないけれど。
 
 そして、そんな些細なことばかり気にしている内に、「ただの爬虫類映画だ」とバカにしていたハリウッド版の『Godzilla』(1998)で、いったい何が達成されようとしていたのか、気付かないで通り過ぎてしまった(今回の映画でもきっと、ゴジラの造形がどうとかいう話が確実に出てくるだろう)。
 
 クリエイターが必要なんだ。クリエイターが。
 
 今回の『Godzilla』を見ていて、ボクが痛感したのがそのことだった。CGになったら何でも出来る。たとえば模型だったらその中から撮ることは(普通)出来ないけれど、CGだったら、カメラをどこに置いたって良い。エフェクトだって何だって、何でもござれだ。
 
 だからこそ、画面全体を支配できるクリエイター…あるいはアーティストが必要なんだ。自分の仕事の範疇しか把握していない技術屋じゃダメなんだそこは(そうした仕事はもちろん必要だし、否定するわけじゃ全然ないけれど)。
 
 (もっと言えば、会社のお偉方の言葉でゴジラにシェーをさせたり、興行上の理由からアンギラスをキングギドラに代えたりしちゃダメなんだ)
 
 ボクは芸術とかアートとかって言葉がキライだ。それはいまや何を指している言葉なのか分からなくなってしまったし、妙に高尚な響きを持っているのがサイアクだ。「芸術」って言うと、なにか小難しいもののように聞こえてしまう。「娯楽」とは、なにか異質のもののように聞こえてしまう。
 
 だけど、そうじゃない。こういうものにこそ、センス/感性、イマジネーション、インスピレーションが必要不可欠なんだ。そうしたものを持っている人が、作品全体を統括しなくてはならないし、技術はそれらに裏打ちされなくてはならない。
 
 この『Godzilla』を見て感じた、もうひとつのこと。それは、彼らはまずイメージ(映像)で考えるんじゃないかってこと。言語的な情報よりも前に、まずイメージがある。そんな印象がある。
 
 映画を作ろうとする時、普通に考えれば、まず本(原作なり脚本)があって、それをいかに「映像化」するか考えるだろう(だからこそ、日本の映画はどこか文学的なのかも知れない)。だけど、彼らはきっとそうじゃないんだ。
 
 この映画、脚本的に言えば、大枠は平成ガメラシリーズの第一作を彷彿とさせる。それに原発や3.11という(21世紀日本の)社会的要素をまぶして、さらにパーソナルな視点として、いかにもハリウッド的な「家族物語」が加わっているという感じかな。
 
 だから、脚本から言えば、そんな目新しいものはない。むしろ、既視感すら覚えるような、懐かしささえ感じるような、そんな脚本だ(これを書いた人は、もう間違いなく、その辺は意識しているだろう)。
 
 この映画で凄いのは、やっぱり映像の力だ。もう序盤からグッと引き込まれてしまう。なにより、撮れている「画」の緊迫感が段違いなんだ。だからこそ、劇中で発せられる「ゴジラ」という言葉に、ものすごい重みが出てくる。こういう映画を観たいんだボクは。こういう映画を。
 
 だけど…完璧じゃない。
 
 ボクは、これだったら金子さんの「平成ガメラ三部作」と『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の方を高く買う。あの当時の技術であれだけ出来たんだ。きっと、ちゃんとやれば勝負できるんだ。
 
 いくら時代はCGになったとは言え、ちゃんとした技術開発を行って、ちゃんとした人材を集めて、ちゃんとした制作体制を築いて、ちゃんと愛情をかけて作れば、きっと、勝負できる筈なんだ(追記:今回の『Godzilla』に『ゴジラvsヘドラ』の坂野さんが関わっているということを書き忘れていた)。
 
 ボクらはもういちど『ゴジラ』を撮ろう。ボクらの『ゴジラ』を。『Godzilla』に負けない『ゴジラ』を。
 
☆☆☆☆★(4.5)