『キャメラを持った男』
ネストール・アルメンドロス
忘れてはならないことだが、世界で最も美しい人でも、どこか不完全なところがある。大切なのは、そうした弱点を正確につかみ、それを最小限に抑えて、スクリーンで目立たないようにすることだ。例えば、名前は伏せておくが、私が撮影することになったあるとても若い女優は、歯茎があまりに立派すぎた。彼女が笑ったり徴笑んだりすると、それがむきだしになって、ほとんど馬のように見えた。私は撮影前にそのことに気づいたので、監督と、そして当の女優にもそれを知らせた。なぜなら、良い女優というものは、常に撮影監督に協力してくれるものだからだ。私たちの仕事は、病気を診断する医者のそれのようなものだ。どうして欠陥を告げずにいられるだろうか。いずれにせよ、ほとんどの女優は自らの弱点に気づいており、それは彼女らが自分自身のことをよく知っているからで、彼女たちは、私たちがそうした欠点を補う手助けをすることに、感謝の気持ちを抱いている。だから、いったん私たちが知っているということを彼女たちが知れば、彼女たちは信頼をもって私たちに身を委ね、私たちの指示に従ってくれるのだ。右にあげたケースでは、解決法として、私たちはその女優に、映画を通じて明らさまに笑ったり徴笑んだりはせずに、モナ・リザのようなスタイルで、ただ「目で徴笑む」だけにするように助言した。彼女はそれに従い、映画の中では信じ難いほどに美しくなって、その時から、スターとなった。
弱点を隠す方法はほかにもある―周知の通り、メイクによる修正だ。しかし、そうした技術の細部は、素人にはあまりよく知られていない。例えば、私が数年前に一緒に仕事をしたある女優は、髪の生え際がたいへんに低く、そのため額が狭くなって顔のバランスが損なわれ、また顎も突き出して見えた。そこで、私は脱毛処理をして生え際を二、三センチ上げることを提案した。この処置は、その昔、同じ問題を抱えていたリタ・へイワースにも施されたものだ。生え際を上げたことで彼女のイメージは一変し、三流の若手女優から時代の「セックス・シンボル」になったのだ。メイクと、ライトと、撮影アングルによるいま一つのカムフラージュの例は、マルレーネ・ディートリッヒだ。映画界に入った頃、彼女はどちらかというと丸顔で、それはドイツの農婦を思わせた。話によれば、ハリウッドに移った時、彼女は歯医者に頼んで奥歯を何本か抜いてもらい、それで頬骨が強調されるようになったということだ。加えて、彼女は求めに応じて減量も行った。1930年のドイツ映画『嘆きの天使』と、二年後にアメリカで撮った『上海特急』とを比べてみればそのことがよくわかる。
さらに、女優の欠点を隠すもう一つの方法は、彼女を最良のアングルからだけ撮影するようにすることだ。人によっては片方の横顔がもう片方よりもまさっていることがあり、それはつまり、顔が左右不均等で、互いにかなり異なっているか、あるいは鼻がまっすぐでないということだ。この場合には、主光線を、鼻が曲がっているのとは反対の側から当てて、それがまっすぐに見えるようにしなければならない。
だが、再びマルレーネ・ディートリッヒに、あの自分自身を実によく知っている女性に話を戻そう。マルレーネは、それなりに理由がなくもないのだが、自分の鼻が低いだんご鼻で、横顔が正面よりも劣っていると思っていた。そこで、ラヴ・シーンでは、普通は見つめ合う男女の横顔、が示されるのだが、彼女は巧みに姿勢を変えていつもキャメラの方を向くようにし、また、ライトが常に彼女の有名な頬骨を強調するようなかたちで当たるようにした。男は横顔で、彼女はキャメラの方を向いているので、彼女は男を横目で見なければならず、それが、のちに映画におけるマルレーネのトレードマークとなった。そうした流し目が、彼女の有名な「宿命の女」の眼差しとなったのだ。こうして、ディートリッヒはたいそう賢明なやり方で、欠点を魅力に変えたのだった。そうした効果を見出すにあたっては、おそらくスタンバーグが彼女の手助けをしたのだろう。
よく知られたもう一つの方策で、映画の中で、男女の別を問わず、特に年配になりつつある俳優が好んで行うのは、徴笑むことだ。徴笑むと、肌が引っ張られて、顔の皺が消えるのだ。そのために、そうした男優や女優は、たとえ場面と何の関係もない時でも、始終キャメラに向かって徴笑むのだ。
場合によっては、欠点とみなされそうなものが利点に変わることもある。リチャード・ギアはたいそう目が小さい。私は『天国の日々』の撮影中に、ファインダーを通してこのことにすぐ気づいたが、それは決して欠点ではなく、まさにその逆で、そのために彼の眼差しはどこか動物的な、鋭く生き生きとしたものとなり、それは彼にセックス・アピールと成功をもたらす一因となった。人が羨むような大きな目をした俳優でも、えてして鈍重で、面白みのない、表情を欠いた眼差しを投げかけるものであり、そこに表われるのは偽りの美しさにすぎない。
ネストール・アルメンドロス『キャメラを持った男』
pp.386-390