X-MEN:フューチャー&パスト(4.5) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『X-MEN:フューチャー&パスト』
X-MEN: DAYS OF FUTURE PAST
 
2014年アメリカ、132分。
 
監督:ブライアン・シンガー
 
主演:ヒュー・ジャックマン
 
概要
 未来から過去へと送り込まれたウルヴァリンや、超人的パワーを持つX-MENのメンバーが、二つの時代を舞台に地球の危機を救うべく戦いを繰り広げるSFアクション。ブライアン・シンガーが『X-MEN2』以来の監督として復活し、ウルヴァリン役のヒュー・ジャックマンをはじめ、マイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス、ハル・ベリーなど豪華俳優陣が競演。プロフェッサーXと宿敵マグニートーの共闘、過去へ向かうウルヴァリン、X-MENの集結など、過去と未来で複雑に絡み合うストーリーと壮絶なアクションに期待が高まる。(Yahoo!映画より)
 
感想
 その映画が面白いかどうかは、冒頭の場面を見れば大体分かる…とボクは思う。
 
 だからこそ、制作者も、技術の粋が集まった、その映画でもっとも見せたかった場面を、惜しげもなく冒頭に持ってきたりする。たとえば、ディズニーのアニメーション映画では、冒頭場面を見ると、その映画の「技術的テーマ」が分かったりする。
 
 これはお約束であって、ヒネくれた人ならば、そこにあらかじめ定められたコードを読み取って拒否反応を示すかも知れない。
 
 だけど、お約束なればこそ、これは効果的なのだ。『X-MEN:フューチャー&パスト』の冒頭では、CGを惜しげもなく使って未来の場面が描かれる。この映像の迫力は圧倒的だ。なにも考える暇もなく、瞬く間に映画世界に引き込まれてしまう。
 
 『X-MEN:フューチャー&パスト』は、基本に忠実に作られた映画だ。これまで映画史が築き上げてきたノウハウをきちんと踏まえて作られている。だけど、ノウハウだけじゃもちろん、大した映画にはならない。
 
 それを、どのように、最新のCGを用いた画面や、その映画で描きたいテーマや物語にすり合わせるか、それこそがもっとも手間のかかる作業なんだとボクは思う。そうして初めて、その映画は生きてくる。
 
 たとえば、脚本。一見、この映画のシナリオは単純極まりないもので、これまでにも何度も同じようなプロットを見てきたかのようにすら思える。だけど、そうじゃない。
 
(以下、ネタバレあり)
 
 この映画では、当初、過去のプロフェッサーが能力を失ったという設定になっている。それはおそらく脚本上の要請ーー人の心を操れてしまうプロフェッサーがいると物語が成立しないーーからなされたものだ。ただこれだけだったら、(いま述べたような)制作者側の都合が透けて見えてしまう。
 
 だから、プロフェッサーが能力を失った原因を作ってあげて、それを作品のテーマのひとつに取り込んでしまう(仲間たちを喪ったことに傷つき、そして心を閉ざしてしまったプロフェッサーは、前作のハンク同様に「普通の人」であることを望み、パンクの薬で能力を封じているわけだ)。ここまでしてくれれば、見ている方としても、制作者の都合が気になることはない。
 
(ネタバレ終わり)
 
 だから、これは単に一回書いて、それで出来上がりって脚本じゃない。何度も何度も検証して、叩いて、推敲して、そうして作り上げていった脚本だ。それは、鑑賞者に対して、そして劇中のキャラクターに対して、制作者が誠実な態度を取ったということに他ならないんだ。
 
 たしかに、こうした共同作業で作り上げていく脚本だと、ぶっ飛んだ爆発力のある脚本は出来ないかも知れない。でも、(素人に散々っぱら突っ込まれるような)あまりに質の低い脚本の映画を見るにつけ、ボクは、こうした作業の重要さを痛感する。とくに原作ものの脚本なんて、(ぶっ飛んでいる必要はない訳で)本来はそれで良い訳だよね。
 
 そして、この映画で…いやこのシリーズで…ボクが感じるのは、やっぱりマイノリティの問題だ。真正面からその問題を声高に叫ぶのではなく、娯楽映画という方法を使って、遠回しにその問題について考えさせる。これは、彼らにしか出来ないことだ。
 
 劇中におけるマイノリティ(ミュータントたち)が、ただ虐げられる存在ではなく、時には暴力的な解決を見い出し、また葛藤するところに、単純に割り切ることの出来ないこの問題の複雑さを感じさせる。その複雑さはまた同時に、この問題が彼らの骨身に染みている問題なのだ、ということも感じさせる。
 
 この映画…このシリーズ…は、単にヒーローものと見るか、マイノリティものと見るかで大きく様相を変える。 おためごかしに社会問題を取り入れている娯楽作品とは正反対に、この映画ではむしろ娯楽要素こそが表層的なもので、真に描きたかったものはマイノリティの問題…そして、マイノリティとしての誇りの問題なのではないかとボクには思えるのだ。
 
 ひょっとしたら、自らがマイノリティであるという自覚がない人(自分を「普通」だと思っている人)にとっては、あまり心を打つ作品ではないのかも知れない。恋愛や孤独のように、個人の問題として処理された方が、多くの人にとっては分かり易いのかも知れない(個人の問題はすべての人に共通する問題だからだ)。
 
 だけど、マイノリティの自覚がある人。社会から、自分たち(あるいは自らの所属する共同体)が排除されている、あるいは白眼視されていると感じたことのある人にとっては、この映画のラストシーンは胸に迫るものがあるだろう。
 
 applause
 
☆☆☆☆★(4.5)