成熟時代のSKE(その4:多様における統一) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「成熟時代のSKE(その4:多様における統一)」

 前回までの記事において、SKEは成熟期に入ったと書きました。だから価値観が多様化し、相次ぐ総選挙の辞退もそのことで説明できるのだと。

 ここでひとつ疑問が生じる筈です。それは、とっくの昔に成熟期に入っている筈のAKBのことです。AKBの場合は辞退者が2人しか居なかった(あやりんが卒業発表しましたな…)。これでは、上に述べたこととの整合性が取れません。

 でも、ボクはこれは2つの点から説明が可能だと思います。ひとつには、これが他ならぬAKBの総選挙であるため、辞退の障壁が支店メンバーよりも高い筈だということ。もうひとつは、それが「東京」だからということです。

 「東京」って言葉は様々な意味を持っています。東京らしさって聞かれた時に、パッと思い浮かぶものは…う~ん、たとえば人が多いとか、そんな曖昧なものかも知れません。むしろ、そうした多様性こそが東京の特徴なのではないでしょうか。各地から人が流入してくるのが東京ですし、どこかごった煮のような印象があります。

 AKBもそれに近いところがある。AKBは結局、東京なんですよね。メンバーの出身地だってバラバラですし、SKEより遥か以前から茶髪解禁でした。つまり、とっくの昔に成熟期に入ってる筈のAKBで、あまり辞退者がいないというのは、それ自体のうちに、様々な道(多様性)を受け入れられる懐を(ある程度)持っているからだと考えられるでしょう(単純に東京の方が様々な点から有利だってこともあるでしょうし)。

 ただ、それはある意味では「懐が広い」ということなのですが、その一方では「アイデンティティが希薄」ってことにもなります。なんでもありってことは、「AKBというのはこうだ」と言えないってことでもありますからね。以前も書いたように、AKBの選抜やコンサートには支店メンバーも参加するのでなおさらです。

 多様性とアイデンティティというのは、ある意味では相反するものでもあるのです。

 一方、SKEのウリは良く云われるように「SKEらしさ」「SKEイズム」といったものです。それはアイデンティティと言い換えても良いでしょう。昨今、大組閣などによって「SKEのAKB化が進んでいる」と云われていますが、それはとりもなおさず、多様化によって、こうしたアイデンティティ…「SKEらしさ」というアイデンティティが喪われてしまうということへの危機感でもあるのです。

 さて、こうした時に、SKEはどうすべきでしょうか。ここで考慮すべきなのは「多様における統一」という言葉でしょう。これは、近代美学において重視されてきた概念です。非常に単純化して言えば、多様の中にもなにか統一したものがあるということ、それが「美」というものを規定すると考えられたのです(ボクがアイドルに「最低限のアイドルらしさ」を求めるのもこれと同じ理屈です)。

 多様化しているからこそ、「SKE」として何かみんなで分有できるもの(=SKEらしさ)を持っていなければならない。「SKEである」という証、アイデンティティですね。たとえば、汗をかくということ、なにかあった時には、みんな一丸となって立ち向かうということ…。なにかそのようなことです。

 ただ、これ(「多様における統一」という概念)を引っくり返して考えてみれば、たとえ統一されていても、みんなが同じような没個性の統一だったらつまらんってことにもなります。

 おそらく、これはどちらに振れ過ぎても面白くない(「美しくない」と言った方が良いかな…)のです。統一だけを追い求めて没個性になっても面白くない(〃)し、個性ばかりを追い求めて纏まりが無くなっても面白くない(〃)。まあ、当たり前のことですね。

 いま、「SKEらしさ」ということが盛んに言われていますが、ただ、そればっかりやって堅苦しくなってしまっても…というのは、(卒業が相次いでいる)いまのSKEファンの苦しい心境でもあるでしょう(少なくともボクはね)。

 SKEとしてのその最適なバランス(SKEはどの辺にあるべきなのか)を探ること…最適化すると言ってもいいですが…それがいま求められていること…そしてきっと、この先もずっとやっていくことなのかなと( ..)φ

 ホントはもう少し考えていることもあったのですが、とりあえず、この辺にしておきますか。


 追記:やっぱり、もう一回だけ(このシリーズ)なんか書くかも。