「制作者」と「作者」(その3-芸術の倫理) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 今回は、贋作が美術館に展示されていることをどう考えるかって話です。これは芸術における「善悪」(=倫理)という問題に絡んできます。そして、この問題においても、やはり「制作者」と「作者」の区別、すなわち歴史的存在である作品外部の「制作者」と、作品そのものから立ち上がってくる「作者」の区別をする必要があるでしょう。

 前回はファン・メーヘレンによるフェルメールの贋作≪エマオの食事≫の例を挙げましたが、この作品の場合はどうでしょうか。この作品に描かれているのは聖書の主題です。それを踏まえなかったとしても普通の食事場面なので、作品内容の点から言えば、これが「悪」であるとは(通常)考えられないでしょう。「作者」は作品そのものから立ち上がってくる存在ですから、この作品の「作者」もまた「悪」ではあり得ません。

 一方、「制作者」という観点からすると、この作品の「制作者」であるファン・メーヘレンは「詐欺師」ですから、(その観点からすると)「悪人」です。この作品が厄介なのは、詐欺に使われた当の作品だということですが、それも作品外部の歴史的状況だと考えれば、「制作者」の「悪」として考えることが出来るでしょう。

 「詐欺師」の作品を展示するのはどうかという問題は当然あり得るわけですが、歴史上にはもっと重罪人だっています。極端な話、人殺しの芸術家だっているわけです。しかしながら、その人の作品群は、史上もっとも優れた作品群のひとつと見なされています(さてボクは誰の話をしているでしょうか)。人は彼の作品に触れる時、「芸術的価値と制作者の倫理観とは無関係なのだ」と言いたい気分になるでしょう(ちなみに、ボクは彼の作品を観ると「奈落の底」を覗いたような気分になります。これは最高の褒め言葉だと思っていただいて結構です)。

 付け加えると、歴史上最悪の犯罪者もまた芸術家でした。ただし、彼に芸術家としての才能はなかった。その風景画を見ても「まあ上手いけれど凡庸だね」くらいの感想がボクの口をついて出て来ます(さて、ボクは誰の話をしているでしょうか)。彼の例を考えれば分かるように、より「凶悪」だったからと言って、より芸術家として優れていたなどということも、もちろんありえないわけです。

 つまるところ、この二人の例を挙げるということは、芸術作品としての価値と、その「制作者」の倫理は、まったく関係がないのではないか…という例をボクは挙げているわけです。しかし、それは確かでしょうか。

 ここで一旦、遠回りをしてみましょう。今度は「制作者」ではなく、作品そのものから立ち上がってくる「作者」の倫理という点から考えてみましょう。会田誠作品の主題は一言でいえば「凌辱」です。しかしもちろん、「制作者」である会田が実際に「凌辱」を行う犯罪者であるわけではありません。ただその描かれている内容(言いかえれば「作者」)が、現代の倫理観からはみ出しているわけです。

 また、現代美術界のスーパースター、ダミアン・ハーストの代名詞は「輪切り」です。これは文字通り、ホンモノの動物を輪切りにして展示するのです。もっとも、彼はこの為に殺しているわけではない…そうなのですが、しかし、この作品の持つ倫理観がボクらの持つ倫理観を揺さぶる…もっとハッキリ言えば不快にさせるのは確かでしょう
 
 ダミアン・ハーストの「輪切り」の例は、「制作者」の倫理と「作者」の倫理が切り離せないという例になります。なんとなれば、実際の動物を使っているために、作品外部の歴史的状況が作品内部に流入してしまっている、もっと分かりやすく言えば、「制作者」の「輪切り」という行為が、そのまま作品そのものに現れてしまっているからです。

 そして、もうひとつ重要なことがあります。先ほどは「芸術作品としての価値と、その制作者の倫理は、まったく関係がないのではないか」と書きました。一方、この上記二つの「作者」の例では、芸術作品としての価値と「作者」の倫理は明らかに関連があります。なぜならば、それらは現代社会の倫理観を揺さぶるからこそ高く評価されているのです。

 さて、問題はここからです。いったい全体、芸術における倫理というものをどう考えれば良いのでしょうか。

 ドラマなどで、マッド・サイエンティストならぬマッド・アーティストの存在を見かけることがあります。倒錯的な天才として描かれ、「美しいものがどう」とか言って自分の芸術のために人を殺すみたいなアレです。まあ、芸術と美とを混同している時点で、どうかと思いますが(芸術と美とはとっくの昔に切り離されました*)、果たしてここは、かような無法地帯なのでしょうか。

 (*もちろん、これは美しい芸術作品が存在することを否定するものではありません。また『レ・ミゼラブル』の例を思い起こせば、善と美とは相通じるところがあります。『レ・ミゼラブル』は絶対的利他という善を描いたことによって、それ自体美しいものになっています。人はそれを「美しい行為」という名で呼びならわしているでしょう。しかしながら、芸術=美という考えが成り立たないことは、とりわけ現代美術においては明らかです。)

 芸術の名のもとには倫理など意味がないのでしょうか。ボクは、おそらくそれはそうではないと思います。それは別にキレイごとを言いたいわけではなくて…ここにはアーサー・ダントーの言うところの「アート・ワールド」が絡んでくるからです。「アート・ワールド」とは「ある芸術作品が芸術作品であることを保証する理論的・歴史的審級」であり、芸術家や批評家、学者などによる美術批評や言説の、いわば束のようなものと考えて良いでしょう。

 この考えに従うのなら、ある作品が芸術であるかどうかは、この「アート・ワールド」の保証によっていることになります。もちろん、どこかに「アート・ワールド」という機関があるわけではありませんし、その言説も一枚岩ではありません。ただし、なんとなくそのようなものがあると考えることは不自然ではないでしょう。

 ダントーは「アート・ワールド」にとって重要なのは、何が芸術であるという「理由づけの言説」であると述べていますが、その一方で、「アート・ワールド」の構成員が社会の一員であることもまた事実でしょう。つまりですね…「アート・ワールド」もまたボクらの社会の一部なわけです。ということは、あまりにも社会的倫理を外れた作品は、芸術として保証され得ない、ということを意味するのではないでしょうか。

 ここでボクは「作品は」と言っていることに注目するならば、ここでは「作者」の倫理が問われていることになるでしょう。

  一方、ファン・メーヘレンの作品が美術館に展示されていたり、カラヴァッジョの作品が高額で取引されているのは、「制作者」の倫理は問われていないことになりそうですが…しかし、それはそれらが(それぞれの事情―ファン・メーヘレンの知名度/カラヴァッジョの天才と当時の歴史的事情によって)特殊なだけで、「制作者」の倫理が問題になって「追放」された作品もあるでしょうし、また、ダミアン・ハーストの例から分かることは、2つの倫理が切り離せない場合があるということです。

 かつて、「道徳的」に怪しからんという理由で、数多の裸体画が葬り去られた時代がありましたし、また、バーミヤンで大仏が破壊されたことを思い起こすのならば、社会的倫理そのものも一定のものではありません。これならアリ、これならナシってのは一概には言えなくて、ケース・バイ・ケースで決まっているとしか言いようがないのかも知れません。

  ただ、法律のように厳密ではなくても、ある程度において社会的倫理が反映される余地がありそうだ、明確に見えるわけではないけれど、どこかにアウトのラインはありそうだ(たとえば、ダミアン・ハーストの「輪切り」が人間だったらアウトでしょう)、ということぐらいは言えるかも知れません。

 なんだか歯切れの悪い結論になりましたが(^_^;)>