「制作者」と「作者」(その2-贋作) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 昨日は、歴史的存在である作品外部の「制作者」と、作品そのものから立ち上がってくる「作者」の区別をしなければならない、という話でした。この文脈において、「作曲家」が実は別人だったという話は、「制作者」が違っていたということになるでしょう。

 一方、(ナンシーが言うところの)「作者」は作品そのものから立ち上がってくる存在ですから、いくら「制作者」が違っていても変わったりするものではありません(人はこれをより簡単に、「作曲家が違っても曲そのものが変わるわけではない」という言葉で表すでしょう)。

 これは、芸術において、「贋作」に典型的に現れてきた事態です。今回の例は、「(偽)作曲家」が「ゴーストライター」に依頼していたという点において異なっていますが、誰かが「他の誰かの作」と称して作品を提示したという構図において、贋作と共通しています。

 ここで思い起こされるのは、史上最も有名な贋作家ファン・メーヘレンでしょう。なかでもフェルメール作とされた《エマオの食事》の例は多くの示唆を与えます。この作品がフェルメール作とされたのは、ある著名な美術批評家のお墨付きが大きかったのですが、これにはちょっとした事情があったのです。

 まず、この話の前提として、フェルメールには宗教画が存在しないということがあります。しかし、この美術批評家は、まだ見つかっていないだけで、フェルメールには宗教画があるに違いないと主張していました。そしてそこに現れたのが、まさに「フェルメールの宗教画」である《エマオの食事》だったわけです。

 人は自分が見たいものをそこに見ます。自分が望んでいたものを目の前にして、彼の目が曇ってしまったことは否めないでしょう。そして、その心情をうまいことファン・メーヘレンに衝かれてしまったわけです。こうして、≪エマオの食事≫はフェルメール作として美術館に買い上げられました。

 「詐欺師」というのは往々にして、こういう心情を衝いてきます。今回の件でも、スターを求めていたクラシック界の事情や、障がい者の物語に弱いというメディア(ひいては日本人)の特性が取り沙汰されています。いつだか「(作品のモデルは)障がい者だったら誰でも良い」と言い放ったとか言い放ってないとか噂された舞台監督も居ましたが…それもなにか共通している部分があるのかも知れません。

 ともあれ、「作曲家」(=制作者)のプロフィールが偽りだった、あるいは別人であったとして、その作品の評価はどうなるのでしょうか。いまやファン・メーヘレン作となった《エマオの食事》の例を見てみましょう。おどろくべきことに、贋作と判明した≪エマオの食事≫は、いまでも美術館に展示されているのです。それはもちろん、フェルメール作としてではありません。そうではなく、ファン・メーヘレン作として展示されているのです。

 もちろん、史上最も有名な贋作という「付加価値」がそこにはある筈ですが(教会の壁画を「修復」したスペインのおばあちゃんの例を思い起こしましょう)、もうひとつ、ファン・メーヘレンの場合には特殊な事情があります。

 彼は、「ナチス・ドイツの高官たちにフェルメール作とされていた≪キリストと悔恨の女≫などの絵画を売った罪で逮捕・起訴された」(wikipedia)のですが、これはもちろん彼が作った贋作でした(彼は表向き画商として振る舞い、その実、自分で描いていたわけです)。したがって、ナチス協力の罪を逃れるためにそれらが贋作であったことを告白したのち、彼は「ナチスを騙した男」として、一種英雄視されることにもなったのです。

 こういう特殊事情があるとはいえ、ファン・メーヘレン作の≪エマオの食事≫がいまだに美術館に展示されているということをどう考えるべきでしょうか。美術館に展示されているということは、それ自体がいまだに芸術作品と認定されているということを意味しています。

 もちろん、フェルメールの作とファン・メーヘレンの作では、その市場価値はまったく異なるでしょう。≪エマオの食事≫がフェルメール作と認定されていた場合と、贋作であることが明らかになった現在とでは、その市場価値はまるで異なる筈です。その違いを重要だと考えるのか、それともいまだに美術館に展示されている(=芸術作品と認定されている)ということを重要だと考えるのか。

 ちなみに、ボクはファン・メーヘレンの絵を見た時に、「これをフェルメール(の素晴らしい)作品と間違えるなんてどうかしてる(=大した絵じゃない)」と思ったのですが…それもまた、「贋作」という先入観によるものかも知れません…が、やっぱり大した絵じゃないと思いますけどね(* ̄艸 ̄)
ファン・メーヘレン≪エマオの食卓≫

 ―閑話休題―

 人によっては、そもそも贋作などを美術館に展示するなど怪しからんと考える人もいるかも知れません。ここにはまた、芸術における「善悪」をどう考えるかという問題も絡んでくるでしょう。

つづく