ラストサムライ(5.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『ラストサムライ』
 THE LAST SAMURAI
 
2003年アメリカ、154分
 
監督:エドワード・ズウィック
 
主演:トム・クルーズ
 
概要
 明治維新直後の日本。政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいた。やがて、政府と発展著しい日本市場を狙うアメリカ実業界との思惑が一致、政府軍指導のため南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉が日本にやって来る。彼はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めるが、ある時、政府に反旗を翻す侍のひとり、勝元と出会った。そして、彼ら侍たちの揺るぎない信念に支えられた“サムライ魂”を感じ取った時、オールグレンは失いかけたかつての自分を思い出していく。(Yahoo!映画より)
 
長い感想…(完全にネタバレします)
 
1.歴史物…
 なんで今さら『ラストサムライ』だって話ですけど…(一応、この書庫の趣旨は最近10年間に公開された映画のレビューってことでやってます<(__)>)
 
 約170億円かけて日本を舞台にしたまったく良く分からん映画をつくった『47RONIN』。約150億円かけた『ラストサムライ』。同じくらいの予算をかけて、しかも間違った日本描写ということで批判される両者。でも、ボクはこの両者には、ジャンルの違い(歴史ファンタジーと歴史大河)を越えて、もっと明確な違いがあると思います。
 
 もちろん、ひとつにはかたや史実を基に作られた物語であり、多くの登場人物が実在の人物の名前を持つ(『47RONIN』)のに対して、かたや時代設定こそあるものの、登場人物がすべて架空の人物である(『ラストサムライ』)という違いがあります。
 
 ボクはよく「史実とは違う」(そして、それによって物語としておかしいところが生じている)という批判をするわけですが、元になる史実を持っていない『ラストサムライ』に対して、そういう批判はそもそも意味を持たないでしょう。
 
 そこで焦点になってくるのが、「時代背景」という問題です。ラストサムライは、史実に基づいてはいませんが、時代設定は明確にされている(明治初期)ので、その点から「忠実さ」が判断されることになります。
 
 『ラストサムライ』が批判を受けるのは、こうした側面が問題になっている場合が多いでしょう。とりわけ批判を受けるのは、勝元率いる「サムライ」側が、鎧兜姿で、しかも弓と刀しか使わないという点です。日本の侍は戦国時代から銃を使っていたわけで、こんな描写は「時代錯誤」も甚だしいってわけです。
 
 戦場で、まるで「長篠」のように騎馬で銃陣に向かって突撃していく「サムライ」たち。まあ、武田の騎馬隊があんな風に突撃するかは別として、「時代を300年くらい間違えてるんじゃないですかい」と。そういう批判を受けるのは容易に予想がつきます(武田ですら鉄砲隊は持ってましたしね)。
 
 でも、じつはボクはこの描写、そんなに気にならないんですよね。他の歴史物においては細かなことにこだわるのに、この映画においては、こんな大きな「間違い」を気にしないなんて変だろう…と言われれば、それは一理あるんですが…
 
 しかし、この映画はやりたいことがハッキリしています。この映画は、次の節で述べるように、明らかに記号化して描いています。写実主義というより、象徴主義で描いている。それが分かるから大して気にならないのです(たとえて言うなら、そうした批判はモローの絵に対して、「こんな恰好をした人間は実際には居ない」というようなもんでしょう)。
 
 
2.象徴、あるいは寓意
 この映画は、人物にある概念を象徴させています。あるいは概念を擬人化していると言っても良いかも知れません。
 
 勝元と彼の仲間たちが象徴するのは、旧時代、伝統、慣習、名誉、武士階級(封建制)、マイノリティといったものです。勝元は西郷隆盛を連想させますが、それはモチーフが近いだけで、西郷ではまったくありません。そういう個人というよりも、むしろ概念そのものがそこに生きているという印象があります。
 
 この状況自体も西南戦争を連想させますが、西南戦争とはまるで別物です。勝元の本拠は冬の間、雪に閉ざされるという描写があるので、むしろ北国――戊辰戦争で敗れた会津など――を彷彿させます(まあ、西南戦争の折にも鹿児島には雪が積もったらしいのですが)。そういう意味において、これはまったく西南戦争ではありえません。そういう個別的な状況よりも、もっと遥かに抽象化されている。
 
 それは、大村に代表される新政府側にも同じことが言えます。彼らが象徴するものは、新時代、テクノロジー、改革、利益、庶民階級、マジョリティといったものです。財閥をもつ平民出身の大村は、大久保利通ではまったくありえません。彼はそういう個人ではなく、新時代を象徴する人物です。
 
 この対立軸を考えた時に、勝元がテクノロジーを用いないというのは、むしろ自然です。必然的であるとさえ言えるかも知れない。旧時代から新時代への移行、テクノロジーによる伝統の破壊、改革によって断絶される慣習、利益主義による誇りの喪失、庶民に駆逐される武士…そういうものを映像として具体化したのが、この映画です。やっていることは寓意画とか象徴主義絵画に近い。
 
 そして、ここに天皇というメタレベルの存在が出てくるわけです。千年以上の伝統を持ちながらも、新時代へ進もうとする天皇は、両者を調和させ得る存在として描かれます。単に旧時代が一方的に駆逐されるのではなく、なにか残っていくものがある(それはまた同時に、新体制側の砲兵隊長や兵士たちにも宿っているものです)。
 
 貴族社会から武家社会へ、武家社会から平民社会へ。数々の変革を経ながらも、それでもそこにあり続けてきた天皇家は、旧時代と新時代の超克の象徴です。それはまた同時に、日本という国が歩んできた歴史でもあります。海外から流入してくる国際文化と、それを独自に消化して花開いていく国風文化。日本の歴史はその繰り返しでした。
 
 この映画全体は、まさに日本の歴史のように、古きものと新しきものの衝突と、その超克によって成り立っています。これはかなり明確な日本観です。日本を知らないどころか、それについて良く知り、良く考えた人が書いたもののようにボクには見えます。ですから、「間違った描写」など大して気になりはしないのです。
 
 
3.アメリカの誇りと痛み
 しかし、この映画は、単にそれだけには留まりません。ここにアメリカという問題が関わってくるからです。アメリカという問題を理解するのは(ボクらには)簡単ではありませんが、ヒントは与えられています。それは、この劇中で言及される唯一の実在人物、「カスター将軍」です。
 
 南北戦争の英雄カスター将軍は、インディアン戦争での無謀な作戦による壮絶な戦死によって、逆にアメリカ白人社会の誇りの象徴になりました。しかし、インディアン戦争での虐殺などの行為によって、近年では悪名が高くなっています。カスター将軍はアメリカの誇りと痛み(恥)を象徴する人物です。
 
 現代アメリカの象徴トムくん演じるオルグレン大尉は、元上官のカスター将軍を徹底的に批判します。「傲慢な将軍だった」と。これだけ見るならば、彼は単に現代的な意識の持ち主のように見えますが…じつはこれ、もう少しねじくれた関係になっているように見えます。
 
 彼の見る悪夢…その風貌…長髪で髭を生やし、騎兵隊の制服を着たオルグレン大尉は、カスター将軍その人を連想させるのです。もちろん、彼はカスター将軍ではありません。自分たちの犯した罪に苦しんでいる彼は、むしろ、カスター将軍に象徴されるアメリカの誇りと痛みの擬人化でしょう。
 
 インディアン戦争において、カスター将軍とインディアン(ネイティヴ・アメリカン)は、それぞれ新時代と旧時代を象徴します。しかしながら、カスター将軍が戦死したリトルビッグホーンの戦いでは、インディアンが圧倒的多数であり、10倍の戦力をもっていました。そして、劇中設定ではオルグレン大尉はおそらくそこには参加していない(カスター旗下の第7騎兵隊211名は全滅しているので)。
 
 これは複雑な関係になっていて、どう解釈すべきなのか…
 
 単純な解釈としては、インディアン戦争において、新時代の側についていたオルグレン大尉は、そこでインディアン虐殺に加わったことで、心に癒せぬ傷を負った。そして、日本にやってきて旧時代の側と交わることで、その傷が癒されていく…ということになるでしょう。
 
 でも、彼の中にはおそらく相半ばする感情があって、それが「アメリカの誇りと痛み」の「誇り」の部分です。彼はカスター将軍を憎みながらもやっぱりどこかで誇りに思っている。あの騎兵隊の突撃を…(それはきっと、現代の白人系アメリカ人のなかにも何処かに宿っている筈のものです)。カスター将軍の傍らで死に損なったことで、彼は死に場所を失い、死地を求めて彷徨っている、そんなところが見受けられます。
 
 勝元がカスター将軍を全肯定するというのは、そういう意味では、オルグレン大尉にとって、とても重要な意味を持っています。なぜなら、勝元は旧時代と誇りを同時に象徴する人物ですから。インディアンの死とカスター将軍の死は、勝元において一つに結び付くのです。
 
 そして、オルグレン大尉は、まさにリトルビッグホーンの戦いのように圧倒的不利な状況のなか、「日本のカスター将軍」であると同時に、「日本のインディアン酋長」でもある勝元の傍らで死ぬことを望むようになります。この映画が、勝元の突撃をまるで騎兵隊のように描かなければならないのは、ここにも必然性を持っているわけです。
 
 カスター将軍の誇りは新時代の誇りです。しかし、その誇りはインディアンの犠牲という痛み(恥)を伴っているものでした。そこには不調和があるわけです。しかし、日本において誇り(勝元の誇り)は滅びゆく旧世代のものです。その誇りは自らの中に痛みを伴い、誇りのなかで死ぬことができる。ここにおいて、「名誉の死」というのが、とても大事な意味を持ってくるのが分かります。
 
 こうして、「誇りと痛み(恥)」は、誇りの中の痛み=名誉の死へと回収され、誇りと恥とが同居する不安定な状態から抜け出していくのです。こうしてオルグレンは救われます。そして最後には、新旧の対立(したがってあらゆるものの対立)を超克する天皇(が象徴する日本)に受け入れられることで、前へと進む道が開かれます。ここに描かれているのは、アメリカの抱える矛盾を、日本という物差しを用いることで乗り越えようとする物語です。
 
 歴史(書)が個々の事実に言及するのに対し、詩はその背後に流れる普遍的なものに言及します。『ラストサムライ』がやっていることはまさにそれです。あるいは神話と言っても良い。ここに描かれている物語は史実ではありませんが、そうした歴史的事実を越えて、詩的真実が表されています。たとえば「人は花」と言った場合、科学的にはまったく正しくないとしても、詩としては真実でありえるように。
 
☆☆☆☆☆(5.0)