『最後の忠臣蔵』
2010年日本、133分
監督:杉田成道
主演:役所広司
概要
『四十七人の刺客』などで知られる池宮彰一郎の同名小説を、テレビドラマ「北の国から」シリーズの演出を手掛けた杉田成道が映画化。赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件で大石内蔵助率いる四十六士が切腹して主君に殉じた中、ひそかに生き残った二人の男の知られざる物語を描く。討ち入り前夜に逃亡した瀬尾孫左衛門に役所広司、討ち入りを後世に伝えるため逃がされた寺坂吉右衛門を佐藤浩市が熱演。そのほか山本耕史、笈田ヨシ、伊武雅刀、安田成美ら演技派が脇を固め、『赤い糸』の新鋭、桜庭ななみも名を連ねている。(Yahoo!映画より)
感想(ネタバレします)
『47RONIN』に失望して(まあもともと期待してなかったんだけど)、「日本人はこれをどう表現してきたっけ」ということが気になっていた。そこで思い出したのがこの映画だった。
ついでに、前作に当たる『四十七人の刺客』も見た。というより、それはかなり以前に見たことがあって、見返してみた。 ク◯映画だったことを思い出した…ボクはそもそも池宮彰一郎さんという作家をまったく評価していないんだよね。昔、なにか読んだことあったけど、読み終わったあとで投げ捨てちまった。だから、そもそもボクがこの映画を見るのが間違いだったわけだ。しかし、よくもこんな作家の本をこうポンポンと映画化するもんだなと。ま、そんなことはどうでも良いか。
ボクは歴史小説がすべからく(一言一句)史実に沿っているべきだとは思わない。ボクは吉村昭さんの歴史小説を愛するとともに、藤沢周平さんの時代小説を愛する。もちろん、吉村昭さんみたいに徹底的な考証を行った上で小説を書いている人は真に尊敬に値するけれど、すべての人がそうできるとは思わないし、史料との付き合い方は人それぞれだとも思う。
問題は、嘘をつくにしても「もっと、ありえそうな嘘をついてくれ」ってことに尽きるんだよね。小説である限り、嘘であってもいい。でも、その嘘をボクに納得させてくれってことなんだ。史実を越えて、いかにも「ありえそうな話」だと思わせられないことには、歴史小説としては失敗だと思う。
前置きが長くなった。この話。この映画。ボクには違和感だらけだった。雰囲気で見せているだけで、実はなんにも芯がない。それは結局のところ、この話が嘘だからだし、その嘘にちゃんと筋が通ってないからだと思う。
『47RONIN』の時と同じように、ここでも問題は「姫」の扱いに典型的に現れていた。ただし、今度の姫は浅野内匠頭の姫じゃなくて、大石内蔵助の姫。池宮さんは、『四十七人の刺客』で、大石の妾「可留」を中心に描いたから、その話を膨らませたかったんだろう。今作では、その可留と大石の間に生まれた(架空の)娘を中心に話が進んでいく。
主人公の孫左は(密命によって)討ち入り前夜に脱盟し、その「大石の姫」を匿っている…というのが根本の設定。それがバレたら公儀の追討を受けるから、その秘密を隠し通さねばならぬ…って感じで話が展開していくわけだけど、そもそも、この設定からしておかしい。
公儀の判断に背いた大石内蔵助以下四十六士は確かに切腹を命じられた。そして、その子供たちも島流しになった。だけど、それは15才以上の男子に限られた(15歳未満の場合は15歳になってから処罰)。女と僧侶はお構いなしだった。幕府に直接弓を引いたわけじゃないし、当時からすでに英雄視されていたから、大石の嫡子は(大赦の)のちに浅野本家に取り立てられていたりする。
つまり大石は、幕府の転覆を図った由井正雪みたいな人とは違うわけだ。ボクはこの話が由井の娘だったら、なんとなく理解できる。だけど、大石の(しかも妾の)子、しかも女の子をそんなに必死に匿うって、なんか理由が良く分からないし、だから心理描写にもついていけない。だって、そんなの「ありえそうもない話」だからだ。
(あ…「妾の子」って表現、なんか差別的に聞こえるかも知れんけど、ボク自身がそういう意識を持っているというよりは、当時の考え方がそうだったということね)
大体さ、これが主君の娘=姫だったらまだ分かるけど、主君の仇討ちのために命を賭ける積もりになっているヤツに、「わしの妾の子の面倒を見てくれ」なんて、言う方も納得する方もおかしいじゃない。そんなのどこが武士道だと。自分の娘が心配なら、どこかの商家か親戚筋にでも頼めば良いわけでしょう?
(訂正:孫左は陪臣=大石の家臣だから、これ自体はそんな問題ないわけか。ただし、史実の可留は、金銀を与えられ普通に実家に戻されている)
こうした「納得できなさ」は細部の描写にも現れている。たとえば、主人公の孫左が大石の墓参りをする場面。そこに都合よく旧赤穂藩士が通りすがる。そして、討ち入り前夜に脱盟した孫左を見かけるや、「どの面を下げてここにこられるんだ!」となじり、ボコボコにする。
え…? 討ち入りに参加した四十七士(はひとりを残してもうこの世に居ないわけだけど)ならともかく、「お前が言うな!」って、誰もが突っ込んだと思う…ってか突っ込むべき(笑)
もしかしたら原作では、その辺の(この旧赤穂藩士が討ち入りに参加できなかった)経緯が書かれているのかも知れないけど、少なくとも、この映画ではそんなことはまるで伝わらない。そもそも、いかなる理由があったとしても参加しなかったのは事実なんだから、そいつがつけあがる道理がない。
(調べてみたら、ここに登場する月岡治右衛門はやっぱり討ち入り前に脱盟している。理由は不明)
討ち入りに参加しなかった旧赤穂藩士が世間から白眼視されたのは事実だけれど、同じく参加しなかった旧赤穂藩士から糾弾されるこの場面はまったくもって意味不明。これは結局のところ、劇的効果を狙っているに過ぎなくて、(姫を匿っているという)真相が明るみになるや彼らは孫左に膝を屈する。まったく…やってることがだっさいよ。
いっつも思うんだけど、こういうのを何の臆面もなく書ける小説家・脚本家ってどういう精神構造してるのかな? 別に王道であることは構わないんだけど、これは設定にも噛み合ってないし、予期された効果を上げられていない。ただドラマティックに仕立てて(表面を取り繕って)いるだけ。それが恥ずかしくないんですか、ということ。
そして、この膝を屈する場面での姫の扱いもまた変なんだ。旧赤穂藩士が続々と駆けつけて平伏するんだけれど、いったい、どこのお姫様だよと。主君の姫君=浅野内匠頭の姫君だったら、旧赤穂藩士が平伏するのはとても理解できる。でも、家老とは言え、同僚のしかも(繰り返すようだけど)妾腹の子に平伏するなんて、ボクにはまったく理解できない。武士ってものを根本的に誤解しているんじゃないかとさえ思う。
(孫左[大石の家臣]と吉右衛門[史実では吉田兼亮の家臣]以外は基本的に浅野の直臣の筈だから、たとえ大石に「恩」があったとしても、別に平伏なんて大仰な演出をする必要はなくて、単に松明もって静かについてくれば良いわけ)
だから、この映画では、他にもたくさんいる大石の遺児たちや赤穂浅野の跡取り(内匠頭の弟で養子)なんかは一切でてこない。なぜなら、それが出てきちゃうと、この「姫」が唯一の「貴種」じゃなくなるから。この話の根幹がゆるいでしまうんだよね。そこまでして、貴種流離譚もどきがやりたいなら、別に忠臣蔵じゃなくて良いんじゃないの? と聞きたくなる。だって、状況が全然噛み合ってないんだから。ムリやりそんなことをやろうとすれば、おかしなことがたくさん出てくるのは当たり前。
そんなだからこの映画、時々――たとえば大石の娘に対する旧赤穂藩士たちの態度のように――、大石内蔵助と浅野内匠頭の扱いがこんがらがってしまっているんだよね。「忠臣蔵」なんて、まさにそうした「忠義」を主題にした物語なのにさ。一体、「忠臣蔵」の何をどう理解してこの物語を描こうと思ったのか、ボクにはちょっと理解できないな。
この映画は、かような混同によって成り立っている。由井正雪と大石内蔵助の混同、浅野の姫と大石の姫の混同、人そのものを混同しているわけではもちろんないけれど、その位置づけを混同しているって感じかな。世界全体がこうした混同に基づいてるから、そこにいくら彩りを加えたって、真に心を打たれるような作品には成り得ない。
大体、赤子の時から手塩にかけて育ててきた姫が、父親代わりの孫左にマジで恋しちゃうとか、なんか気持ち悪い(キモいから!)。なんでそこだけちょっと「源氏物語」なんだと。光源氏の場合は(紫の上は赤子ではなかったし)意図的だから、かえって清々しさもあるわけだけど、「自分に全然その積もりはないのに、大事に育ててきた女子が想いを寄せてきました」って、なんか気持ち悪いんじゃ!
それこそ、藤沢さんの小説(冴えない中年の武士に若い子が恋をしているという、良くあるパターン)を意識しているのかも知れんけど、もうなんか全然違うんだよね。その辺の心理描写の微細さとか、必然性とか組み立てとかね。まあ、よくもこんな作家の…って、もう良いか。
良かったのは映像の雰囲気と役者さんくらいかな~…(とくに、姫役の桜庭さんはなかなか良かった。一方、田中邦衛さんが出てきた時は、雰囲気に合ってなさすぎてチャンネルを変えそうになった)。映画としては『四十七人の刺客』よりはマシだねって程度。
☆☆☆(3.0)
…にしても、最近、歴史物を見ちゃあコケにするのが続いていて、少しバランスを欠いている気がする…。次は、少し前に見たやつだけど、ちゃんと褒められる歴史物のレビューを上げることにします<(__)>