『正しくあるために2』
2.内向きのマインド
かつて48は、ファンとメンバーと運営の有機的な絡み合いによって生み出されるダイナミズムによって駆動していました。ファンが育てる劇場、ファンの顔が見える握手会、そしてファンの声がダイレクトに反映される選挙。
たとえファンの間から運営やメンバーのパフォーマンスに不満が上がったとしても、たとえメンバーが運営やファンの意見に納得できなくても、それを取り込んで自らのエネルギーにしてしまえる回路がそこには存在していたのです。「アンチを糧にせよ」。秋元さんの言葉が何よりもそれを象徴しています。
このエネルギーこそが、48を、アイドル界…引いてはJ-POP界の(売り上げ)トップに立たせた原動力でした。そうした回路は、もちろんいまも(建前上は)存在しています。しかし、現在、これまでにないほど内向きのマインドが48を取り巻いているように思えます。
「アンチ」という言葉は一人歩きを始め、それはいまや、自分の気に入らない意見をすべて「アンチ」としてシャットアウトするだけの機能しか果たしていません。そこにはもはやダイナミズムが生まれる余地もありません。
「ファンの意見を聞く必要はない」と言い放ったさっしー。「自分らしく」という言葉を金科玉条のように語るメンバーたち。Yes Manたちに囲まれ「自分らしさ」を全肯定されることにのみ悦びを見い出す姿からは、かつての闘士たちの面影は見出せません。
「自分らしさ」あるいは「個性」。現代を象徴するこの言葉。それはまた48も例外ではありません。個性というのは、自由という概念に伴って出てくるものです。自由という価値が最大化されている現代において、個性という価値が重要な意味を持っているのは言うまでもありません。
しかし、48という場は、本来、自由が最大化されている場所ではありません。なぜならば、そこにはアイドルという価値観が入ってくるからです。それによって「アイドルはこうあらねばならぬ」という制限がかかっているのです。
もちろん、現代という時代に応じて、以前のアイドルグループに較べれば、48では個性が重視される傾向にあります。言わばマーブルチョコみたいな魅力が48の魅力でもあるわけです。それでも、やはりチョコであることに変わりはありません。それは決して、煎餅や羊羹ではありえないのです。いわば、「限定された自由」「制限された個人主義」が、48という場における支配的要素だったのです。
しかし、今や「自分らしさ」「個性」という言葉が、なにか自己防衛/自己弁護のように、あちこちで使われ始めています。単なる自己防衛でしかないその言葉は、その本義を失い、後ろ向きのものにならざるを得ません。「自分らしさ」「個性」を後ろ向きに肯定する立場からは決して成長は生まれません。すべてが「個性」に回収されてしまうからです。
踊れないのも個性…MCが苦手なのも個性…ブログ更新しないのも個性…ファンの言うことなんて聞く必要はない…なぜならば、「私らしさ」は「私だけが」決めることが出来るから…だから私は私の好きにやる…。
それなら、ここにはもはやボクらの居るべき場所はありません。
彼女たちは、結局のところ、アイドルという役を演じる普通の女の子に過ぎません。聖人ではない。ボクらがこうして批判的な意見を書くことで、耐え切れなくなり、やがて耳を閉ざしてしまう。メンバーはメンバー同士で固まり、ファンには心を開かなくなる。そしていつか、誰も批判的な意見を書かなくなる。
でも、それならダイナミズムはどうして生まれますか?
運営もまたファンの声には耳を貸さなくなりました。運営に対する不満を受け止める筈だった総選挙も、もはやファンの意志に運営が反発するだけの場に過ぎません。「紅白を目指す」ったって、紅白はファンが直接どうこう出来る場ではありません。
数々のスキャンダルをすべてスルーし、あまつさえ支配人や社長の不祥事にさえダンマリを決め込む運営。正しいことはなにか、間違っていることはなにか…いまやすべての扉が閉じられています。
処分は内々で下され、ボクらには何も見ることも知ることさえできません。密室で決められる前時代的な政治。ファン間の話題と、運営やメンバーが表に出す話題はすれ違い、いまやいくつものタブーが生じています。議論することさえ許されない。こうしてボクらの間は千切れてしまいました。
もはや、48はボクらのものではなくなったのです。