主体は世界に属さない。それは世界の限界である。世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
―ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン―
電車のなか、ボクは世界のどこにもいない。
ボクが居ない世界をイメージすることは容易い。それはいつも、ボクがこの眼で見ているものだから。その世界にボクがボクを描き込むことは出来ない。居るのに居ない。まるで幽霊のような存在。映画で使われる「じつは自分が幽霊だった」というオチは衝撃を伴うものだけど、ボクはその方がよほどしっくりくる。「ボクはここには居ない」。そう考えることはとても自然だ。
だけど、幽霊と違って、ボクは人に見られるということに慣れている。これが満員電車であれば、隣の人と肩が接する。だから、文字通りの意味においてボクは幽霊ではない。人のまなざしにおいて定置される自分。それでもやっぱり、ボクのまなざしの中にボクは居ない。世界は常にボクの世界なのに、そこにボクは居ないということ。それは時に耐え難い。
ボクはボクであることから逃げられない。この世界は常にボクの世界だ。この世界が一人称以外のものであったことなど、生まれてから一度もない。たとえ『転校生』のように人格が入れ替わったとして、たとえ幽体離脱で「外」から自分の身体を見ることが出来たとして、世界がボクの世界であることには違いない。この世界が一人称のものでないことなど決してないのだ。
一人称で語るということは自我を認識するということに他ならない。自我の芽生えが「ボク」と「世界」との境界を確立させるならば、自我の芽生えこそが「ボク」を「世界」から切り離す。だからこれは結局、「ボク」というたびにボクをこの世界から消し去っていくゲームなんだ。ボクが「ボクは」と言うたび、ボクはこの世界から消えてなくなっていく。
文明は「自我」をもたらし、自我は「世界」を確立させる。そして、人は世界に融け込むために、自然と交感し、神懸かりになり、瞑想し、あるいはSEXをする。暗闇に溶け込み、酒を飲み、音楽に身を委ねる。(それらは全て「忘我」という言葉で呼びならわされてきた)。そして最後には、文字通り土に還っていく。あらゆる宗教が、結局のところ世界から切り離される自我を救うために、言いかえれば「自我」から遁れるために存在してきたのではなかったか。
そしてボクは歩いていく。まなざしのなか濁っていくセカイのなかで、それでもまだ幽かに見い出せる星の遠さに、救いを見い出しながら、ボクは…