少し前にSKEで茶髪解禁になって、一騒動があったばかりですが、今度はNMBで解禁になったようです。これはちと意外でしたね。なんたって、彼女たちのデビュー曲は『絶滅黒髪少女』でしたし、(『12月31日』でも見せた)あの土下座パフォーマンスや、『HA!』の衣装など、NMBは「和」というビジュアル・コンセプトを持っていた筈でしたから。
まあ、こういう場合のボクの意見ってのは決まってるわけですが、これは自己プロデュースの問題(グループ内での差別化)とグループ・プロデュースの問題(グループ間の差別化)に分けて考えると分かりやすい。自己プロデュースによる差別化ってのは当然ありえるわけですが、そこはグループ・プロデュースとの兼ね合いになります。上にあげたビジュアル・コンセプトってのは、まさにグループ・プロデュースの問題でしょう。
ある番組で、玲奈がSKEメンバーの顔写真一覧を見て(全員、黒髪で雰囲気が同じような感じなので)「無個性集団ですね」と言っていたのですが、じつは、それ自体が一歩引いてみると個性になるんですよね。つまり、グループ内では多かれ少なかれ似たように見えたとしても、(あの年代の子なら)誰もが染めたがる中で、全員が黒髪のグループってのは、外から見れば、それ自体が個性になりえるということです。それはつまり、個性って範囲をどの視点から見るかって問題なわけですが。
ですから、グループ・プロデュースが優先されると自己プロデュースが犠牲になり、自己プロデュースが優先されるとグループ・プロデュースが犠牲にされる。これは、ある意味ではトレードオフの関係になるわけです。しかし、実際のところ、そう単純な話でもないという気もします。
実際問題として、「アイドル」って時点で、すでに縛りはあるわけです。これはたとえば、小説ないし映像作品で、巫女さんをどう描くかという問題として考えると分かり易いかも知れません。魅力的な作品にするためには、それぞれの巫女さんを個性的にしなければならない。でも、たとえば髪を染めたキャラにしてしまった場合、その子は巫女さんではなく、巫女さんコスプレ(イヤー)になってしまう。
アイドルの「個性」ってのも、これに近い事情があるわけです(どこまでの範囲を「アイドル」と捉えるかという問題はあるにせよ)。だけど、その制限を一概にマイナスなものとして捉える必要はないのではないでしょうか。
たとえば、イラン映画を考えてみましょう。イランってのは、イスラム教国であり、宗教指導者が大統領よりも強い力を持っている国です。そのため、種々の生活に対して(宗教上の要請から)非常に制限がかかる。映像表現においても、そうした「制限」がかかるわけです。でも、彼ら(映画作家)は、その制限の中でいかに表現するかを考え、工夫し(たとえば子供を主人公にするとか)、それがイラン映画の美点になり評価されました。
それを考えると、いかに(黒髪など)制限がある状態でも、個人個人が、そこで何とか工夫して個性的に見せる努力を行うことで、その制限を逆手に取ることが出来るってのは言えるんじゃないでしょうか…自由ってだけが個性を表現する道じゃない…
ってのは、まあ、ボクが黒髪支持者だから言う言葉ですけどね(笑)
でも、正直、(成功したあとに髪を染めたアイドルは数多いれど)髪を染めて大成功したアイドルってのは(ここ十数年)あまり記憶にないですけどね(だからこそ、ボクは黒髪支持に転じたわけですが)。たしかに、垢抜けて瞬間風速は出る。でも、その風速は長続きしない。結局、(髪を染めるのが普通である現代では)市井に溶け込んじゃうから、神秘性・聖性とかアイドル性とか、なんでも良いですけど、そういうものが失われてしまうんですよね(アイドルってのは世俗的なものを離れたところに生まれる)。